ストーリー

気候変動に立ち向かうホップ研究者。高温順化と屋内栽培で“ビールの未来”を守れ

  • 原料栽培・生産

~ホップの苗に高温・乾燥耐性を付与する技術と、屋内栽培技術を開発~

地球温暖化による気温上昇が、ビールの香りと苦味を支えるホップ栽培に深刻な影響を与えています。ホップは冷涼な気候を好むため、ヨーロッパの伝統的なホップ産地では収穫量の減少や品質低下が進み、ビール文化そのものが岐路に立たされています。その現実に真正面から挑んでいるのが、入社5年目の今堀莉子研究員です。植物の持つ環境適応力に着目し、ホップに高温・乾燥耐性を付与する技術を確立しました。さらに、品種改良を加速させる屋内栽培技術も開発。科学者の探究心と好奇心、人々の笑顔を支えたいとの想いが交差した、挑戦と創意の物語です。

今堀莉子(いまほり・りこ)

キリンホールディングス(株)R&D本部 飲料未来研究所 研究員

幼少時より植物に親しむ。大学院で植物生理学を専攻し、植物の再生能力の仕組みを研究。修了後の2021年、「お客様の笑顔につながるモノづくり」を志し、キリンホールディングス(株)入社。機械学習を用いたビール品質管理の開発、ビール廃棄物の利用技術開発などに携わった後、入社3年目の2023年より持続可能な原料生産、特にビール原料ホップの研究に取り組んでいる。

動けないからこそ面白い。植物の適応力に魅せられて

「もしかしてそれ、ホップ色ですか?」
会った瞬間、今堀研究員の首から下がるストラップの鮮やかなグリーンに目を引かれました。見せてもらうと、ホップの葉が全面にあしらわれ、毬花のキャラクターまで描かれた、まさにホップ柄です。
「いいでしょう。チェコで見つけて買ってきたんです。200円くらいで(笑)」

そんな今堀研究員の植物への興味は、幼いころから育まれてきました。
「もともと子どもの頃から植物が好きで、動けないからこそ面白いと感じていました。植物の中にはヒトよりはるかに大きなゲノムを持つ種類もあります。動けないぶん環境の変化に合わせて遺伝子の仕組みを工夫してきたといわれていて、そういうところがかわいいなと思っていました。小学生のときには、ラジオの『子ども科学電話相談』に『なぜモミジは赤くなるのか』と何度も質問を送ったりしていたんです」

学生時代には、植物がどんな環境でも生き抜こうとする姿に関心を持ち、研究に取り組みました。
「植物は虫に食べられたり風で折れたりしても、根や茎、葉を再生する強い再生能力を持っています。私はその再生を支えるメカニズムを解明することをテーマに、基礎研究を進めていました。その後は、より人の近くで役に立つ研究がしたいと考え、原料植物研究に強く、研究用の畑を持つキリンを選びました」

そして挑戦したのが、持続可能なホップ栽培技術の開発。子どもの頃から魅了され続けた“動けないからこそ環境に合わせて変わる植物の力”を、人や社会に役立つ技術へとつなげていく道のりでした。

暑さにも乾燥にも強くする条件を、執念で見出した

今堀研究員がまず挑んだのは、「高温順化」という技術を用いた研究です。対象はドイツの品種「ヘルスブルッカー」とチェコの品種「ザーツ」。いずれもキリンにとって欠かせないホップ品種ですが、温暖化による気温上昇や乾燥の影響で収穫量や苦味成分(α酸)が減少し、気候変動への対策が急務となっていました。

「植物は事前に軽度の熱ストレスにさらされると、その後の高温下でも生存できるようになります。これが高温順化です。植物にストレス耐性を付与する方法はいくつかありますが、高温順化を選んだのは、本来の香味を損なわず、育種や遺伝子操作が不要で、短期間で社会に実装できると考えたからです」

実験用のホップ培養苗を観察している今堀研究員

研究では、キリン独自の植物大量増殖技術も活用。苗を増やす工程に熱処理ゾーンを組み込み、育てながら耐性を付与する方法を開発しました。さらに同じ処理で、他のストレスにも効果があるかを検証し、高温だけでなく乾燥にも効果があることを確認しました。

しかし、その最適条件を見つけるまでが容易ではありませんでした。
「処理温度、期間など、ほんのわずかな違いで結果が変わります。品種ごとに反応も異なり、2週間ごとに条件を振って数カ月単位の試験を繰り返しました。1回4〜5カ月かかる試験をずらしながら並行で進め、インキュベータ(細胞を培養する装置)がすべて埋まるほど。微調整を続ける毎日でした」

チェコやドイツの研究者にも直接会いに行き、情報を集めました。そうして、ついに実験室での最適条件を導き出したのです。

図1 熱処理をしたホップの耐性評価

試行錯誤の圃場実験。霜、虫、台風との闘い

実際の畑で活用できる技術にするため、続いて挑んだのが圃場での実験です。今堀研究員は、岩手県江刺市の契約圃場で3年間にわたる試験を行いました。
「ホップは、同じ株を長期に育てる植物で、1年目は収穫量や品質が安定しません。小さな苗の段階で効果を確認し、2年目、3年目でその持続性を評価しました。海外では、平均気温が約1.5℃上がるだけで収穫量が落ちるとの報告もあることから、2年目は遠野と江刺の2地区で比較。平均気温が約2℃高い江刺では、熱処理を施した苗で初期生育が回復し、収穫量の向上も確認されました。品質も無処理と同等。風味を損なわずに環境ストレスに強くできるという狙いどおりの結果が得られています」

ただ、畑では思わぬ苦労が続きました。
「1年目は雪で苗が全滅しかけ、予備で育てていた苗を急いで送り込みました。岩手ではゴールデンウィーク前に霜が降りることも知らず、現場で学びました。2年目は虫害、3年目は台風。年ごとに平均気温も降雨量も異なります。実験室と同じ条件は畑では通用しないと痛感しましたが、農家さんと密に連携し、わからないことは素直に相談して信頼を築けたのが大きかったと思います」

3年目を終えた今、ようやく安定した評価段階に到達。収穫したホップは分析と香味評価を行い、海外実装を見据えた次の挑戦へとつながっています。

図2 圃場における生育状態の比較

国内ホップ産地を訪問し、ホップ生産者、キリンビール工場社員と協力しながら圃場試験を実施しています。ホップ苗を定植している様子(左)、収穫時期のホップ畑(中)、ビールに使用するホップの毬花(まりばな)の成熟度を確認しながら収穫している様子(右)

学会で世界が注目

2025年6月、今堀研究員はこの研究成果を、国際ホップ生産団体の科学技術会議で発表しました。
「『こんなに簡単にできるのか』という驚きの反応や、1つの処理で高温と乾燥という2つの効果が得られたことへの関心が高かったです。一般的には、暑さに慣らせば暑さに強くなり、乾燥に慣らせば乾燥に強くなるという研究が多いので、多面的な効果を検証する例は珍しいのです。他のストレス要因についても引き続き、評価、研究を続けています」

国内の協力農家からも、期待の声が高まっています。
「処理の有無で、苗の違いが目に見えて分かるとの驚きの声をいただいています。海外に比べて冷涼で、降雨量の多い日本は、温暖化の影響が少ないとされてきましたが、空梅雨や異常高温が増え、状況は変わりつつあります。海外品種での研究成果を、将来的には国産品種にも応用していきたいです」

次なる挑戦。屋内栽培で品種改良を加速

ホップから遺伝子を抽出する今堀研究員

「東北の農家さんと協力しながらホップを守っていこう」と、今堀研究員は気候変動に適応したホップの品種改良の研究開発にも取り組み始めています。その鍵となるのが、高速品種開発スタートアップ企業のCULTA社と共同で開発した「ホップの屋内栽培」です。

「ホップは収穫まで年単位を要し、畑での評価は年1回しかできません。屋内栽培なら季節を問わず、年3〜4回のサイクルで育種が可能です。研究期間を大幅に短縮できると考えました」

ホップの屋内栽培は、世界的にも前例があまりありません。
「植物工場は、イチゴやレタスなど背丈が低く短期間で収穫できる作物が主流で、ホップのように栽培に年数がかかり、高く伸びる植物には不向きです。国内には天井の高い施設も少ないため、試行錯誤の末、つるを横に誘引して育てる独自の方法を考案しました」

ハイドロボールを使った基材や日長条件を検討し、短期間で開花を促す条件を確立。さらに、キリンのこれまでの技術や知見を活かして、新しい品種づくりを加速することができます。
「今年からこの技術で育てた株を交配し、採種した種を評価していく予定です。気候変動に強い品種や多様な香りを有する新しいホップの誕生を目指し、研究をさらに加速させています」

図3 ホップに適した屋内栽培方法

基礎から実装まで、責任を持てる研究者に

今堀研究員が目指すのは、実験室での研究を終点にせず、社会に役立つ形へとつなげていくことです。
「基礎研究から実装化まで、自分の足で現場に入り、畑や商品に使えるところまで責任を持ってやり切る研究者でありたいと思っています。キリンの先輩方の知見や農家さんの実践知を統合し、埋もれた技術を掘り起こして活用することで、持続的な原料生産に貢献したい。そのためにも、外に出て多くの人とコミュニケーションを重ねることを大切にしています」

原動力は、広く深い好奇心です。電気や工学など守備範囲外の学会にも積極的に足を運び、異分野の知見を吸収して組み合わせの可能性を探っています。
「現在人工衛星のデータを活用して、日本ワインの高付加価値化する方法を模索しています」

1年目から畑に立ち、気候や作物の変化を肌で感じてきた今堀研究員。
「だからこそ、自分の研究を社会に還元したい」と語るその眼差しの先には、農家の笑顔、そしておいしいビールを楽しむ人々の笑顔が重なっています。

  • 組織名、役職等は掲載当時のものです(2025年12月)