免疫状態を「測る」ことで変わる行動
2025年5月22日、1本のニュースリリースが公開され、注目を集めました。
「『免疫』の状態を可視化する独自の検査サービス開発をスタート!」
検査サービス開発や事業の実績を持つヘルスケアシステムズ社と協業し、キリン独自の免疫可視化検査サービスを開発するという内容です。
牛田主査は、このリリースを“打ち上げ花火”にたとえます。
「2025年中に開発および実装に向けた検証を進め、2026年中に段階的なサービス提供を開始する見込みであることを公表しました。研究開発した技術を発表する前だったので、詳細はあえて書いていません。それよりも、一度公表したら後戻りはできない。やり切るぞ、という覚悟を込めて出しました」
リリースに先行して、社外イベントで「免疫を測ってみる」体験を実施したところ、検査前後で「免疫ケアに取り組みたい」と答えた人が約2倍に増えるという調査結果が得られました(下図)。牛田主査は、この結果を出発点のひとつとして見ています。
「免疫は目に見えないからこそ、数値で知ることで自分の体を実感できる。そこから“普段から整えておこう”“次も測ってみよう”という行動につながると感じます。免疫の見えるサービスをつくることは、免疫ケアを広く普及したいと考えているキリンにとって重要な取り組みだと、あらためて強く思いました」
ここから、実装への動きが一気に加速しました。研究を事業として人の生活に結びつける姿勢──それは、牛田主査がこれまでのキャリアで育んできたものでもありました。
図1 検査前後の免疫ケア取り組み意向変容
アメリカで出会った「研究と事業を結ぶ人」
牛田主査が社会実装を重視する背景には、前職とアメリカ留学での経験があります。
「大学・大学院は農学系で、就職後は大手食品会社で機能性成分の研究、さらに“見える化”に関わる事業的なプロジェクトを経験しました。例えば、食べた栄養素の量を非侵襲的に推定するデバイスに関する研究開発や社会実装に関する取組みなどです」
さらに、在職中のアメリカ留学で大きなカルチャーショックを受けます。
「研究と事業とがつながっていること一体で動いている環境を目の当たりにしたのです。研究室のボスである名物教授は90歳近い高齢でしたが、長年の研究成果を実際の事業の種にしながら、同時に毎日『今日の発見は何だ?』と若い研究者に声をかけて回っていました」
研究室の壁には、教授の座右の銘が掲げられていました。『発明することが私の人生の本分である』という言葉です。
「研究者として日々の発見を大切にしながら、成果を社会に戻し、その収益でまた新しい研究をするという循環が、目の前の一人の研究者の生き方として示されていました。留学前は『研究は研究、事業は事業』と別々に考えていましたが、アメリカでは研究者が事業のことを考えるのが自然で、事業活用を見据えて研究が設計されていました」
牛田主査にとって、この体験は「研究者が事業化まで考えていい」と実感する大きな転機になりました。後年、キリンに入ったときに「研究成果を社会実装する」「研究から事業化までを一貫して担う」というヘルスサイエンス研究所の方針とすぐに接続できたのは、この時の土台があったからです。
pDC活性測定と尿中IgA──キリンが挑んだ免疫の可視化
経験を生かし、さらに海外展開を視野に入れた幅広い仕事をしたいとキリンに転職。入社してまもなく任されたのが、「免疫見える化の検査サービスを開発する」という挑戦的なテーマでした。しかも、示された期限は1年。
「プロトタイプを作って、テストまでの期限が1年です。それを実行するには覚悟が必要です。石橋を叩き続けていては、新しいことは永遠にできません。どこでどう割り切るか。腹を括りました」
幸いなことに、牛田主査とともに研究を行うチームでは、免疫を見える化するための研究に数年前から挑戦していました。
鍵となったのは、キリンが長年研究してきたpDC(プラズマサイトイド樹状細胞)です。pDCは体内で免疫応答を指揮する“司令塔”のような細胞で、その活性を知ることができれば、体の免疫状態、例えば体内に侵入するウイルスに対抗する準備ができているかを客観的に評価できます。
「従来は採血と専門的な分析が必要でしたが、それでは一般の方には使いにくい。そこで、採血せずに測る方法を探っていました」
着目したのは、血液とつながりのある尿でした。研究チームでは、血液から得たpDC活性のデータと同じ人の尿サンプルを突き合わせ、尿に含まれる数千~数万種類のタンパク質やマイクロRNAなどの成分からpDC活性と関連のあるものを探索。網羅的な解析技術を駆使し、統計学的に意味のあるマーカーを探し出すという地道な作業を続けました。
「探索研究は空振りに終わることもあるので、地道に進めていく覚悟がいります。サンプルの状態や前処理の条件が少し変わるだけで結果が揺らぐ。大量のサンプルを一つずつ丁寧に分析・解析して確認していく作業でした」
試行錯誤を重ねた末に、数種類のタンパク質やマイクロRNAにpDC活性との関連を確認することができました。その中にはあまり知られていないものもあり、純粋な研究としてはそれらのタンパク質やマイクロRNAの研究を深堀した方が面白いのかもしれません。その一方で、免疫見える化検査サービスをスピーディーに開発するという目的感も重要視しました。結果として、pDC活性と関連が確認された幾つかのタンパク質のうち、尿中のIgA(イムノグロブリンA)に注目しました。IgAは免疫に働く抗体として知られており、基礎となる測定原理も存在するため検査サービスの開発を比較的速く進められると考えました。
「pDC活性をヒトで正確に測定できる基盤技術をすでに持っていたことが、キリンの強みでした。長年積み上げてきた免疫研究の知見が、この新しい検査法開発を支える力になったのです」
この成果は2025年10月、「pDC活性の活性を可視化する尿中因子を世界で初めて発見」とのニュースリリースで公表されました。免疫を見える化する新しい技術が、こうして社会へ向けて一歩を踏み出したのです。
図2 pDC活性と尿中IgAの関連
使える形にするための工夫と多部門協働
同時に、実際にサービスとして使用するための「ものづくり」も並行して進める必要がありました。マーカーが決まった段階で、まず取りかかったのは検査の最適化です。
「何を測るかを決めるまではそこに集中し、決めてからは、検査会社に『このマーカーを正しく、経済的に測れるか』を相談し、分析条件を最適化してもらいました」。実際に開発を進める中で、IgAは尿中では濃度が低く、検査法を開発するために様々な検討が必要となりました。しかし、検査法開発の知識や実績のある検査会社と協力しながら試行錯誤することで、尿中のIgAを精度よく測定できる検査法を開発することができました。
また、利用者にどのように伝えるかを考える作業も欠かせません。マーケティング部門や想定利用先と協議しながら、ネーミング、パッケージ、説明書の構成を検討しました。
「利用者への伝わりやすさやインパクトを狙いながらも、法令等に抵触しないよう言い回しを調整するなど、細部の落としどころをつくりました」
こうして複数の部門と連携しながら形にしたのが、「免疫偏差値チェッカー(仮称)」の試作品です。キットには説明書と手順書、採取容器、返信用封筒が同梱され、尿を採取して投函すれば結果が返ってくる仕組みになっています。
結果の提示方法にも、行動につなげるための工夫が詰まっています。
「『免疫ケア』の意識を高めたり、行動を促したりするためには納得感のある説明やインパクトのある見せ方が重要です。それらを、法令の観点あるいは過度な誘導表現にならないようにということに留意しながら作っていきました。ただ実際に使用していただいた多くの方々から感想を聞くと、『こういうことが求められているのか』や『ここは見せ方を改善したほうが良い』と気づくことがたくさんありました」
測って終わりではなく、その結果をどう生かすかが大事だと牛田主査は言います。
「免疫は生活習慣や環境によって日々変動するので、1回測るだけでは自分の平常値がわかりません。季節の変わり目や繁忙期、旅行からの帰宅後などに風邪をひいたり、口内炎ができたりといったことは多くの人が実感していることと思います。生活の節目に測ることで、自分の免疫が下がりやすいタイミングに気づけるようにする。そして、睡眠や食事にいつも以上に気を使ったり、ストレスを溜めないようにしたりといった免疫ケア行動に取り組んでいただきたい。そんな使い方をしていただけるように、結果の提示方法を見直していこうと思っています」
結果の見せ方、次の測定までの間隔、測定後にどんな生活改善や商品利用につなげるかまでを含めて設計していく。
「ここまでできて初めて、サービスとしての『免疫の見える化』になるのです」
図3 「免疫見える化」キットの説明書(試作品)
実装への挑戦。様々な人や組織との共創
技術に目処が立っても、すぐにサービスとして配布できるわけではありません。キリンのように品質保証や表現規定が厳格な企業では、社内モニター向けであっても「何を測るのか」「どう説明するのか」「パッケージ表示に不足はないか」などを、社内基準に沿って一つずつ確認する必要があります。今回の「免疫見える化」キットも、配布物としての審査フローに乗せることになり、細部の論点が次々に現れました。
倫理、知財、法務、品質保証などの観点で社内外の専門部署との協議を重ねました。ある論点が解決に近づくと、別の論点が立ち上がる――その繰り返しでした。
「白でも黒でもないグレーの部分を、どこまでなら責任を持って対応できるか。弁護士の見解も踏まえながら、一つひとつ文書で整理していく作業でした。みんなで良いものをつくろうとしているプロセスなので、丁寧な確認とコミュニケーションを積み重ねていくことが本当に大事でした。このとき整えた手順や考え方は、今後新しいことに取り組む際にも必ず役立つと思っています。また、キリンに入社して間もなく、知り合いも少なく会社のルールや慣習も詳しくなかった私にとって、本当に多くの人と知り合い、キリンが大切にしていることを実感する良い機会となりました」
図4 免疫見える化キット
サイエンスで、幸せな社会をつくる──1,500人のテストと、その先へ
キリンのグループ内では、すでに1,500人以上がテストに参加し、使用感等のデータの蓄積が進んでいます。
「『数値で客観的に分かるのが面白い』という声が多いです。『生活リズムを整えるきっかけになる』という実感も聞こえてきます。一方で、1回だけだと解釈が難しいので、どの頻度で、どんな場面で測ると行動に結びつきやすいか、運用面の最適化にこれから取り組んでいくところです」
2025年10月には、幕張メッセで開催された「CEATEC 2025(シーテック)」のセミナーにも登壇。また、会場の展示ブースで免疫見える化検査サービス(試作品)を紹介していると、企業の健康経営担当者、家電・住宅設備メーカーや生命保険会社の商品・サービス開発者など多様な方々から「免疫状態が客観的に見えると説得力がある」と関心をもっていただきました。「免疫ケア」の重要性を広く社会に浸透させることにつながる連携が生まれています。
今回の取り組みを「可視化技術を社会で使える形にするための、大きな一歩」と捉える牛田主査。見据える先は、さらに広がっています。
「研究の力、サイエンスの力で、人々が健康で幸せになれる社会をつくりたい。サイエンスにはそれほどの力があると思います。キリンは国内、そして世界で様々な事業を展開しています。ヘルスサイエンス領域の事業も拡大していきます。その様々な事業を通じて、サイエンスの力を世界中の多くの人たち、困っている人たちに届けていきたいです。「カラダの状態」を可視化することは、新たな研究コンセプトや実感しづらい健康価値を啓発・普及する上で役に立つと考えています。言い換えれば、「可視化技術」はサイエンスを社会に繋げる役割を担うと期待しています。今後、「免疫」に限らず「カラダの状態」を可視化する技術を磨いていくことにより、研究開発により新たに生まれる製品やサービスの市場への浸透や、製品・サービスの海外市場への展開等にも活用していきたいと考えています」
今後、研究や技術の進化により、体温を測るような感覚で日常的に自身の免疫状態を測るような未来が来るのではと感じています。また、それをキリンがリードしていけたらと考えています。研究と事業とのあいだを往復しながら、科学を生活の中で生かすしくみを整えていく。その積み重ねが、キリンのヘルスサイエンス研究の強さを形づくっています。
参画メンバーとともに将来像を語り合う様子(左、中)。展示ブースにて「免疫見える化検査サービス(試作品)」を紹介(右)。
- 組織名、役職等は掲載当時のものです(2025年12月)