ストーリー

気候変動だけでなく、水資源や資源消費などの環境影響を総合的に評価。若き研究者が切り拓く、バイオプロセスLCAの最前線

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~シチコリン製造のLCA(ライフサイクルアセスメント)を学術論文として公表~

1つの製品をつくる一連の工程が、環境にどれほどの影響を及ぼしているのか。工場の温室効果ガス排出量だけでなく、原料の農作物が何か、栽培が水や土壌に与える影響はどうかなど、一つひとつ詳細に調べ上げ、学術論文として公表した研究員がいます。自然豊かな山口県防府市で研究に打ち込む梶龍馬研究員。深い知的好奇心と粘り強い探究心で課題に取り組み 、バイオプロセスにおけるLCA事例を世界に発信。「なんとなく環境に良い」のイメージではなく、数値と根拠に基づいてより良い方向性を探る──その緻密な取り組みを追いました。

梶 龍馬(かじ・りょうま)

キリンホールディングス(株)R&D本部 バイオプロセス技術研究所 研究員

大学・大学院で化学工学を専攻。実験スケールを製造現場につなぐスケールアップに関心を持ち、修了後の2018年、健康に役立つ製品づくりを目指して協和発酵バイオ(株)入社。生産技術研究所(現・バイオプロセス技術研究所)にて、アミノ酸精製プロセスの現場導入に携わる。2021年よりライフサイクルアセスメント(LCA)の研究に取り組んでいる。2023年、キリンホールディングス(株)に転籍。

幼い頃に芽生えていた、数字や環境への興味

「小さい頃から数字を追うのが好きで、それが今につながっているのかな。30数年変わってないんだなと思いながら、日々、情報収集と計算値に向き合っています」
そう笑顔で語る梶研究員。大学で化学工学を専攻したのも、数式で予測を立てることに惹かれたからです。
「化学工学は0を1にするというより、1を10や100に広げ、実験室で生まれた技術を産業へと発展させていく学問です。配管の水の流れや化学反応など複雑な現象をシンプルな式で表せることに面白さを感じました。化学反応の速さや、この温度条件だとどのくらい反応してどのくらい物質ができるか、数式で表して予測できる。そうした知識を、ものづくりの手段として生かしたいと思っていました」

そんな梶研究員に、「LCAをやらないか」と声がかかったのが2021年。入社4年目のことです。
「化学工学のバックグラウンドがあったからだと思います。当時はLCAのことを知らず、何のことかもわからなかったですが、調べていくうちに面白そうだなと思いました。ただ、会社の中に詳しい人は誰一人いませんでした。今でもそうですけど(苦笑)」

とはいえ、環境分野がまったく未知だったわけではありません。
「高校時代は科学部で酸性雨の研究をしていました。地元は高度成長期に公害問題を抱え、その後、さまざまな取り組みを通じて環境改善を進めてきた地域なので、幼い頃から関心があったのかもしれません。大学の研究室でバイオディーゼル製造法の研究に従事したこともあります。そんな話は会社に伝えていなかったのに不思議ですね。寄り道をしつつ、結局戻ってきたという感じです」

なぜ「全体」を見なければ環境は守れないのか。LCAの必要性

LCA(ライフサイクルアセスメント)は、製品やサービスが環境に与える影響を“全体”で捉える手法です。

「環境影響というと、工場内での排出を思い浮かべがちですが、実際には原料づくりから製品ができるまで、あらゆる段階で環境影響が生じています。農作物の栽培や化学原料の製造でも排出はあり、原材料を運ぶ際にも輸送由来の排出があります。工場内でも、発電や蒸気発生などの工程でエネルギーが使われています。こうした一連のプロセスの影響を合算したものが、製品のライフサイクルにおける環境影響なのです」

近年、環境影響評価を踏まえたバリューチェーン全体の改善が企業に求められています。しかし、キリングループでは、製品単位の詳細なLCA評価はまだ十分ではありませんでした。だからこそ、どの段階に大きな影響(ホットスポット)があるのかを可視化し、確かな根拠をもって改善につなげる必要があります。

LCAを行うメリットは社外・社内の両方に広がります。
「社外的には、取引先と連携することで、サプライチェーン全体での排出削減に取り組める点が大きいです。また、情報開示によって環境対応企業としての信頼性が高まり、企業価値の向上にもつながります。社内向けには、影響の大きい工程を特定し、効率的に改善を進められること、そして製品価値の向上にも寄与します。たとえば『この飲料はCO2排出量が〇〇g』のように数字を示すことで、環境意識の高いお客様が商品を選ぶ際の参考になり得ます」

日本では環境といえば温室効果ガスを中心に語られがちですが、 LCAはそれだけではない多様な環境影響を明らかにします。
「水資源、生物多様性、酸性雨、土壌への影響など、多角的な視点が不可欠です。トレードオフといって、たとえば気候変動への対策として意図した取り組みが、別の領域では悪影響を及ぼすこともありえます。LCAはそうした“良かれと思ってしたことの見落とし”を防ぎ、意思決定をより確かなものにするための基盤となるのです」

図1 ライフサイクルアセスメント(LCA)のイメージ図

LCAを1人で始める――手探りでの膨大な情報収集

梶研究員が手がけたLCA事例は、協和発酵バイオ(株)の主力製品・シチコリンです。環境意識の高い欧州にも市場が広がる中、将来的にデータ公表が求められる可能性があるとして、原料から製造、製品に至るまでを総合的に評価し、学術論文として公表しました。

とはいえ、最初から順調だったわけではありません。LCAを行うには膨大な情報収集と計算が必要ですが、社内に詳しい人はおらず、梶研究員は「どこに情報があるのか」から探り始める必要がありました。

Web会議を行なっている梶研究員

まず、ノウハウを学ぶために東京大学との共同研究がスタートします。会社からのミッションは温室効果ガス(GHG)排出量の算定でしたが、大学側から「世界に発信するなら他の環境影響も含めるべき」と助言を受け、梶研究員自身も「全部見なければ後手に回る」と考えるようになります。

「LCA専任は当時も今も一人。最初の手がかりになったのは製造の手順書でした。ただしLCA用に書かれているわけではなく、計算に落とし込むには現場の実態を補う必要がありました。知り合いのいない中、研究所→製造→調達→サプライヤーへと数珠つなぎで関係者を探し当て、メールや電話で情報を集めていきます。誰に聞けばいいのかさえ手探りで、とにかく会社の共有フォルダを漁るところから始めました」

原材料情報の収集は、さらに大変です。
「主原料のブドウ糖ひとつとっても、原料のデンプンはトウモロコシかジャガイモか、産地はアメリカかオーストラリアかで環境影響も輸送距離も輸送方法も違います。納入仕様書や、時には複数メーカーからの調達状況を確認し、比率を算出し、輸送方法まで調べる必要があります。40種類以上の原材料について、同様の調査を重ねました」

計算には既存のデータベース係数を使いますが、「本当にこの値を使っていいのか」と製法レベルまで検証し、時には自ら係数を作る必要もありました。実際の現場をすべて見られるわけではないからこそ、大学の先生と相談し、「ここまでやれば妥当と言える」というレベルまで確認を重ねました。

半年ほどかけてようやく“ある程度の数字”が出る。しかしLCAはそれで終わりではありません。数字が出てからも「この考え方でいいのか」を何度も自問し、再計算し、検証を重ねていく必要があります。梶研究員は、一つ一つの情報を探し出し、疑問と向き合い、手作業で積み上げる地道な営みをひたすら続け、全体像を明らかにしていきました。

「ブドウ糖」や「製法比較」から明らかになった様々な影響

シチコリンの製造で、特に影響が大きかったもののひとつが主原料のブドウ糖です。論文では、ブドウ糖の影響の大きさを下記のグラフで示しています。(a)は気候変動(≒GHG排出量)、(d)は水質汚濁等に関係する富栄養化、(e)は土地利用です。
「(d)(e)では青い部分、つまり主原料であるブドウ糖が大半を占めており、環境影響が非常に大きいことがわかります。富栄養化が大きくなるのは、肥料の使用や農薬の製造段階で生じる環境影響によるものです。ブドウ糖をたどると農作物に行き着くため、栽培段階で大きな影響が生じていることがわかります。栽培には土地が必要になるため、土地利用の影響も明確に現れています」

さらに、バイオプロセス技術研究所が確立したシチコリンの製法比較も行っています。改良した製法ではコスト削減や生産性向上を実現するだけでなく、結果として環境への影響も低減していることが、今回の研究で明らかになりました。
「下のグラフの(b)は光化学スモッグの原因となる光化学オキシダントの環境影響量を示しています。左の2つ(Cur、Cur-RE)が従来製法、右の2つ(Alt、Alt-RE)が改良製法です。2つの製法を比較したところ、改良製法では有機溶剤を使う工程を減らしているため、環境影響量が大幅に下がっています。(a)のGHG排出量でも新製法のほうが小さく、(b)〜(f)に示されるとおり、気候変動以外の影響領域でも良い変化が確認できました」

LCAによって、研究所が努力の末に生み出した技術を、環境という別の側面から確かめることができるのです。

図2 LCA結果:シチコリン1kg製造あたりの環境影響量

ライフサイクルステージごとのシチコリン1kg製造におけるCradle-to-gate(原料生産から製品ができるまで)LCAの結果:(a)気候変動(b)光化学オキシダント(c)水資源消費量(d)富栄養化(e)土地利用(改変)(f)資源消費
Curは従来製法、Altは改良製法、Reは再エネ電力利用(太陽光)を表す。
引用:Kaji et al., Process Saf. Environ. Prot., 2025(https://doi.org/10.1016/j.psep.2025.106836

「良かれと思って」がもたらす環境影響。
伝え方に悩んだ、太陽光発電の算出例

ある環境影響を低減しようとすると、別の環境影響が増加する「トレードオフ」の例として挙げられるのが、太陽光発電導入を想定した場合の結果です。
「導入後は気候変動が減少する一方で、鉱物資源 や化石資源などを評価する資源消費は逆に増加していました。太陽光パネルの材料にはシリコンやアルミニウム、銀などの金属資源が使われているためです。何かを良くしようとして別の影響を増やしてしまう可能性があるので、トレードオフを踏まえた意思決定が必要になります」

論文で示した前出のグラフでも、その影響が可視化されています。
「グラフのREは再エネ電力(太陽光)利用を示しています。REと記されているそれぞれの製法は、仮にすべての電力を太陽光発電に置き換えた場合の計算結果です。左から2番目と一番右が該当します。(f)は資源消費で、黄色が電力の影響を示しています。太陽光発電を想定すると、電力由来の影響が増加しているという結果になりました」

この結果をわかりやすく再構成したのが図3です。金属資源の使い方や代替策について慎重な検討が必要であることがわかります。

「LCAは伝え方が難しく、前提を知らないと意外な解釈につながることがあります。 たとえば太陽光発電も、設備の製造段階では環境影響が生じます。 その事実を理解したうえで活用していくことが大切だと思います。 知っていれば、次の対策が取れますから」

キリングループでは現在、全ての電力を太陽光発電で賄っているわけではないですが 、今後のエネルギー方針を検討するうえで参考になる結果です。
「太陽光でも環境影響がゼロになるわけではありません。電力使用量を抑える取り組みはこれからも欠かせないと思います」

図3 シチコリン製造における太陽光発電導入想定時の環境影響の比較

図2の(a)と(f)を再校正したグラフ。BeforeとAfterがそれぞれ図2のAlt(改良製法)およびAlt-RE(改良製法_太陽光発電想定)を示す。
出典:Kaji et al., Process Saf. Environ. Prot., 2025(https://doi.org/10.1016/j.psep.2025.106836)を基に作成

LCAを公表する難しさと意義

今回のLCAは、シチコリンの製造工程のどこに環境影響がかかっているかを示すだけでなく、生産技術を持つバイオプロセス技術研究所ならではの強みを生かし、複数の製法を比較できた点に大きな意味があります。製法ごとの差を評価できるのは、実際のプロセスを扱ってきた研究所だからこそ可能であり、その裏には公表できない細かな工夫や技術的蓄積が数多くあります。そうした背景があってこそ、今回の研究は厚みのある成果になりました。

現場調査を行う梶研究員

一方で、特定の製品のLCAを学術論文として社外に公表するには、“どこまで製法情報を出すのか”という課題があり、社内でも時間をかけて慎重に議論を重ねました。それでも梶研究員は、環境影響に関する情報をできる限り透明に示したいと考えています。
「環境に配慮した製品を選びたいお客様にとって、情報そのものが価値になります。製品単位のLCAを公開する取り組みはまだ普及途上です 。『 なぜ環境に配慮できているのか』を説明できること自体が強みになるのです。今後もシチコリンに限らず、他の素材でもLCAに取り組んでいくつもりです」

「なんとなく環境に良い」ではなく、多面的な環境問題の解決を

温室効果ガスだけを算出してほしいとの会社の当初方針を超え、あえて総合的なLCAに踏み込んだ背景には、梶研究員の強い使命感と情熱があります。

「やるからには徹底的にやりたい、真理を突き詰めたいんです。もちろん仮定も含まれるので完璧にはできませんが、自分の計算の誤りが会社や社会の意思決定を誤らせてしまうのが怖い。それがLCAの難しさであり、向き合う理由でもあります。そもそも曖昧さを残すと気持ちが悪いんです。そのせいで時間がかかりすぎて怒られることもありますが(笑)」

視線はすでに社内の広がりへ向いています。
「自分一人で完結させず、グループ全体に広げていきたいです。社内でLCAを理解している人はまだほとんどいません。同じ考え方を持つ研究者が増えれば、気候変動だけでなく水資源や生物多様性など、他の環境影響も見ながら開発できるようになる。せっかく開発した技術が、別の環境影響が原因で『実はやめたほうがいい』となるのを避けたい。そのためにも、新技術の環境影響を多面的に評価しておくことが大切なんです」

論文公表がきっかけになり、すでに社内の2つの研究所から相談が寄せられています。
「関心を持ってもらえるのは本当に嬉しいです。まずは自分が道筋を示し、いずれは各研究所で自立してLCAができるようになってほしい。実際に手を動かしてみないとわからないことばかりですし、LCAを知っているかどうかで開発の進め方そのものが変わっていくと思います」

根底にあるのは、「なんとなく環境に良さそう」というイメージだけでは判断できないという思いです。
「健康と同じように、環境の話でも“良さそう”というイメージだけが先行することがあります。しかし、それだけでは本質的な効果につながらない場合もあります。だからこそ、数値に基づいて環境影響を明確にし、根拠をもって判断できるようにしたい。それが私の強い思いです」

そして梶研究員は、迷いなく語ります。
「めざすのは、本質的な環境問題の解決です。自分が生きているうちにできることではないかもしれません。でも、確実に近づけることはできるはず。LCAを通じて未来につながるものを残したい。そのためにも、まずは社内から、そして社会へと仲間を広げていきたいです」

  • 組織名、役職等は掲載当時のものです(2025年12月)