ストーリー
記事公開:2023年5月

アカデミアから転身。CSVにつながる世界初*の新技術を確立した気鋭の研究者

  • *Medline、BIOSIS、AGRICOLA、FSTAなど、世界の主要な農学・生物医学・食品系文献データベースに掲載された原著論文情報に基づく(2024年7月29日、8月1日調査実施 ナレッジワイヤ社調べ)
  • 原料栽培・生産

~植物の大量増殖技術を新展開させ、ホップの環境ストレス強化技術を開発~

キリンのR&Dでは、CSV(Creating Shared Value:共通価値の創造)実現に向けて、専門性と研究力を備えた人財が活躍しています。その一人が、ポスドク(ポストドクター)を経て2020年に入社した平川健研究員です。植物の環境ストレス応答という自身の専門性と、キリン独自の植物大量増殖技術、ビール原材料のホップを掛け合わせ、入社からわずか数年で、世界初の新技術を確立しました。気候変動や農家減少といった社会課題を解決し、未来につながる快挙はいかにして生まれたのか。アカデミア(大学や公的の研究機関)から転身した経緯と、研究への想いを聞きました。

平川 健(ひらかわ・たけし)

キリンホールディングス(株)R&D本部 キリン中央研究所 研究員

2019年、東京理科大学大学院理工学研究科応用生物科学専攻で博士号(理学)を取得し、日本学術振興会特別研究員PD(所属:奈良先端科学技術大学院大学)に。博士課程およびポスドクでは植物の環境ストレス応答を染色体構造やエピジェネティクスの観点から研究。同年9月、日本植物学会若手奨励賞など複数の賞を受賞。2020年2月、キリンホールディングス(株)入社。植物大量増殖技術の継承・発展、ビール原料植物のホップに関する研究開発に情熱を注いでいる。

「後悔したくない」と飛び込んだキリンのキャリア採用

「博士号取得後の選択肢は2つありました。アカデミア(大学や公的の研究機関)で自分の研究を継続するか、就職して企業研究者になるか。どちらも魅力でしたが、一つの道を究めたいという思いから迷った末にポスドクを選びました」

現在の研究拠点である湘南ヘルスイノベーションパークで、平川研究員が振り返るのは、ほんの4、5年前の自身の姿です。継続した研究がまとまり、複数の論文として実を結んだのが2019年夏。研究成果は複数の学会賞としても評価をされました。「多くの方々の支えがあり、本当に幸運でした」

直後、本人も驚く心境の変化が訪れました。アカデミアでのさらなる活躍が期待されるなか、新たな挑戦への気持ちがわいたのです。
「実験室で見ている現象が本当に重要なのか、実践的なフィールド(野外)で試してみたい」

ちょうどその頃、目にしたのがキリンの募集でした。
「キリンのような大企業が植物の研究者を募集しているとは思わず、驚きました。自分なりに調べると様々な原料植物との接点があり、フィールドを考慮した植物研究が可能と感じました。しかも、論文発表や学会発表も可能。アカデミアの人間に親和性がある募集内容で、今の自分にぴったりじゃないかと」

研究中断の迷いもありましたが、「ここで応募しなければ後悔する」との直感に動かされ、意を決して応募。
「アカデミアでお世話になった皆様には当時申し訳ない思いもありましたが、『これからの時代、アカデミアから企業に行く人も必要だ。考えることに変わりはないから、頑張れ』と同期や先輩が口々に励ましてくれました。キリンに入っても変わらずしっかりやっていこう。そう決意しての転身でした」

心に刺さった技術継承。自由闊達な環境が待っていた

入社後、示されたミッションは、定年退職を控えた大西昇シニアフェロー(現OB)が守ってきたキリン独自の植物大量増殖技術を継承することでした。
「話を聞けば聞くほどすごい方で、重みのあるポジションだと身が引き締まりました。さらに大西さんは、『まったく新しい研究もやってほしい』とも言ってくれました。引き継いでくれた技術を消したくない。新しいこともやりたい。来たからには、キリンならではの植物で、自分の研究スキルがどこまで通用するかを試したい。そこで思いついたのが、ビールの原材料であるホップの研究です」

ホップは環境ストレス弱いことが知られています。地球温暖化による収量低下や品質低下という社会課題に直面しており、「ホップの環境ストレス耐性を高める技術を開発し、課題解決に貢献したい」と考えたのです。植物のストレス応答の研究に打ち込んできた平川研究員だからこその専門性が生きるテーマ設定でした。

「大西さんから、ブレンダーで破砕した後に植物体が増殖するという話を聞いたことが大きなヒントになりました。植物は、すり潰してもそこから個体が発生する。動物にはない驚異的な再生能力を持っているのです。破砕物から植物が再生する過程において、自分が以前から知っていたストレス応答に機能する遺伝子が活性化しているのではないかと思い、大西さんに意見を聞くと、『僕も、その遺伝子が働いていると思う』と仰っていた。その会話が心に刺さり、この会社に入って良かったと思いました。企業もアカデミアも通じるものがあることを実感できたからです。新しい研究を自由闊達にさせてもらえる環境も、研究所内外の研究者に相談できる環境もここにはある。今も、キリンだからこそできている研究だと思うことが多くあります」

世界初!植物にストレス耐性を付与するアミノ酸を発見

成長したホップの培養苗の茎を切り、新しい培地に移植をする様子。

こうして着手した研究は、目覚ましい成果を生みました。一つは、アミノ酸の一種が、ホップの環境ストレス耐性を強化することを世界で初めて明らかにしたことです。

「先述のブレンダーで植物を破砕する方法の存在から、ブレンダー処理というある種の傷へのストレス応答が高まっている植物では、ストレスを緩和させる分子が多く蓄積しているのではないかとの仮説を立てました。そこで分子メカニズムを詳細に解析した結果、すり潰されて傷ついた植物体ではストレス応答が非常に活性化しており、複数の植物で解析したところ、あるアミノ酸が多く蓄積していることがわかりました」

このアミノ酸を植物に吸わせることで、ストレスに応答して働く遺伝子を活性化させ、植物のストレス耐性を強化することが可能になります(図1)。遺伝子組み換えや育種の手間をかけることなく、ホップに限らずさまざまな植物に利用できることから、この技術には、未来への大きな期待が寄せられています。

図1

植物大量増殖技術の分子メカニズム解析から植物にストレス耐性を付与するアミノ酸を発見した。例えば、このアミノ酸を植物に処理すると酸化ストレス応答遺伝子の発現が上昇し、酸化ストレスによる葉の白化が抑制される (Hirakawa et al, Frontiers in Plant Sci, 2023)。

100倍以上も増やせる、ホップの大量増殖技術を確立

栽培の難しいホップを大量増殖する技術開発にも成功しました。
「研究のアイデアは、植物大量増殖技術を引き継ぐことになったときに浮かんでいました。生産農家の減少という課題解決のためにも、ホップの大量増殖法を作りたい。それが、技術継承の上でも、CSV実現を達成する上でもいいことではないかと考えたのです」

ストレス耐性を強化した苗を大量に作ることができれば、気候変動に適応した品種開発や、栽培のしやすさ、収量の増加などに貢献することができます。平川研究員は、継承した植物大量増殖技術を応用し、増殖に適した培地の条件を見出すとともに、「キリン2号」と「カスケード」という品種のホップを用いて、植物ホルモンを与える方法を考案しました。
「ジベレリンとサイトカイニンという2つの植物ホルモンを加えたところ、腋芽(えきが)の形成効率が増加し、従来の約100倍まで増殖効率を高めることができました(図2)」

図2

腋芽の成長促進を介したホップの新たな大量増殖法を開発した(左図)。特定の植物ホルモンの組み合わせにより、さまざまな品種で腋芽の形成と伸長が促進される(矢じりが腋芽を示す)。この手法を活用することで、従来の約100倍の効率でホップ苗を調製できるようになった(右図)(Hirakawa and Tanno, Plants, 2021)。

苗を手に、いざ、フィールドへ!

大量増殖技術で作った苗が、実際に野外で育つのか。2022年春、ついにフィールドでの試験が始まりました。場所は、日本産ホップの生産地である岩手県です。
「現地と密接な関係をもつキリンの飲料未来研究所の協力なくしてはできない試験です。実験や苗作り、植え付けなど、多くの人に関わってもらい、実験を進めることができています」

「実験室にこもっていてはわからない」と痛感した出来事も多々あると言います。
「研究所で万全に準備したつもりが、畑に植え付けた翌週、想定外の雪に見舞われ、全滅に近い被害を受けてしまいました。苗を作り直して植え直すことになり、関わってくれている人たちに申し訳なかったですが、人間の都合だけではできない、環境要因も考えなければ最適な結果は得られないと知った貴重な経験でした」

研究者が考える使いやすさと、生産者の使いやすさはイコールでないことも体感したそうです。
「完璧だと考えて持参した苗でも、生産者のご経験から全く違った形の苗が理想と教えらえました。関わってくださる人々のホップに対する情熱をひしひしと感じるとともに、実験室から出て、生産者の方々とコミュニケーションを取る大切さと楽しさを味わっています」

大量増殖法を用いて調製したホップ苗を、日本産ホップ生産地の岩手県の圃場に植え付けている様子です。大きく成長してつるが伸びている苗もあるので、現地のホップ農家の方のアイデアで、園場にネットを設置し、つるをネットにかけました。このように、生産者の方々と共同で最適な栽培法を検討しています。

アカデミアで培った研究力が、今に生きている

こうしていろいろな人と関わりながら、数々の成果を挙げている平川研究員。「アカデミアの研究を通じて知らず知らず身についた知識や技術、経験が、今まさに生きている」との実感があると話します。
「一つは、目標を達成するために、ストーリーを描いて研究の道筋を立てる力です。自分よりも研究歴の長い先輩の方々がおりますので恐縮ではありますが、博士課程からポスドクまで5年、6年と同じ研究を続けたからこそ身に付いたと思います。もう一つは、周囲を巻き込むコミュニケーション力です。学会などで気になった人には積極的に声をかけたり、学外と共同研究を進めたりしていたので、好奇心に基づくフットワークの軽さが鍛えられました。キリンに来てからも、キリン中央研究所だけでなく、飲料未来研究所にスペシャリストがいると聞けば話しに行くなど、横のつながりを大切にしています」

実験材料のホップの培養苗。葉の様子や生育状態を観察する平川研究員。

誰とでも臆さず交流し、ディスカッションしながら進めていくのが平川研究員の原動力でもあるのです。
「キリンに入って思うのは、とにかく皆さんが温かいということ。自分がやりたいと思ったことを『いいね』と言って背中を押してくれる温かさに助けられています」

困難にぶつかってもあきらめない粘り強さも、平川研究員の持ち味です。
「好きでしていることなので、研究がうまくいかないときにも、悩むことはありますがモチベーションが落ちることはありません。苦しさ以上に、夢中になっているから。やりたいことをしていると、自然にそうした粘りが生まれると思うんです。自分で成果を早く知りたいし、結果を知りたい。だから、簡単にはあきらめられないんです」

社会課題解決に貢献し、CSVを実現する喜び

迷った末のアカデミアからの転身。「選択は間違っていなかった」と平川研究員はあらためて振り返ります。
「キリンに来て、企業の特色を踏まえた深掘りの基礎研究がしっかりとできる場所が企業にあることを知りました。そのことを、身をもって示していきたいです。そして、CSVを体現できる研究環境があることも伝えたい。消費者の方々の手元に届く、身近な植物を研究材料として扱える場はなかなかないと思います。研究を通じて、原料の安定的な供給や、地域、環境に貢献できる喜びを感じています」

オープンイノベーションに適した研究環境も、積極的に活用したいと話します。
「iPS細胞を作った山中伸弥先生は、異分野である植物の研究者から『植物の世界では万能細胞を作ることは非常に簡単ですよ』と聞いたことが、研究の突破口となったと語っておられます。湘南ヘルスイノベーションパークでの異分野との交流を通じて、次なるブレイクスルーが起きるかもしれません。植物としてのホップは、調べれば調べるほどわからないことばかりです。ビールメーカーの使命を果たすためにも、研究を長く継続し、未来につながる成果を一つでも多く残したい。キリンというフィールドで夢をさらに広げ、追い続けます」

  • 組織名、役職等は掲載当時のものです(2023年5月)