ストーリー
記事公開:2022年12月

キリン×ファンケル×慶應義塾大学がタッグを組んだ最新研究「AIと分子シミュレーションによる、クレンジング剤の洗浄率予測システム」。その成果と展望を語る

  • その他

キリンでは、ビールの開発や製造に人工知能(AI)を取り入れ、効率化や品質向上を図ってきました(醸造匠AIの開発、AIを活用した濾過計画システム)。最近はヘルスサイエンス領域でもAIを活用した研究開発に取り組んでいます。

いま注目を集めているのが、グループ会社であるファンケルと慶應義塾大学との共同研究「AIとシミュレーション技術を活用したクレンジング剤の開発予測システム構築」です。化粧品に使われる原料の種類は膨大で、その組み合わせは無限大ともいえます。その中から最適な組み合わせをAIに予測させ、製品をつくり上げることができるでしょうか。かつてない難題に挑む3人が、その面白さとAI開発の未来を熱く語ります。

  • 濱口 直(はまぐち・ますぐ)

    キリンホールディングス(株)キリン中央研究所 研究企画ユニット データサイエンスグループ
    2008年キリンビール(株)入社。工場内の設備設計やユーティリティー管理に携わる。2016年から本社でIT等の新技術導入業務に従事し、2018年から現グループに所属。データサイエンス技術の現場適用について研究開発を行っている。

  • 三譯秀樹(みわけ・ひでき)

    (株)ファンケル 総合研究所 化粧品研究所 研究員/製剤開発グループ課長
    2006年入社。以来、16年間にわたり化粧品の処方開発に携わる。特に、スキンケア化粧品、洗顔料、クレンジング剤の基盤技術開発や新規処方開発に力を注いでいる。

  • 荒井規允(あらい・のりよし)

    慶應義塾大学 理工学部 准教授
    2009年慶應義塾大学大学院理工学研究科で博士号(工学)取得。電気通信大学助教、近畿大学講師・准教授を経て2019年より現職。分子シミュレーション手法を用い、化粧品や洗剤をはじめとするさまざまなソフトマター材料の特性や機能性の分子レベルでの解明に取り組んでいる。

ものづくりを変革させる 「AI技術(機械学習)」と
「シミュレーション技術」の融合

──キリンは、ビールの新商品開発支援システム「醸造匠(たくみ)AI」を開発・運用するなど、AI活用に積極的です。今回の研究はクレンジング剤がテーマですが、どのような考えで、AI開発を進めているのでしょうか。

濱口

私たちは、AIなどのデータサイエンス技術をいかにものづくりの現場に適用するかを研究しています。ビールもクレンジング剤も、「ものづくり」に変わりありません。ものづくりはいわば料理のようなものです。料理でレシピを考えるとき、どんな材料を使うか、弱火か強火か、何分加熱するかなど試行錯誤を重ねますよね。それと同じように、どんなものづくりでも原料や製法をいくつも実験や試験製造で試しながら、お客様の求める性質、つまりスペックを達成できる最適な条件を探ります。すべてのスペックを同時にクリアするのは難しく、何度もやり直すことになりがちです。でももし、条件を入力するだけで、スペックを予測して出力してくれるAIがあれば、実験回数が減り、ものづくりのスピードは大幅にアップするはずです。

三譯

逆もありますね。こんなスペックのモノがほしい、と出力を設定するだけで、最適な条件を教えてくれるレシピ探索があったらもっとうれしい。それができれば、効率だけでなく、品質も向上できる可能性がありますし、研究者が膨大な実験から解放され、創造力を高めることに時間を充てられます。

濱口

以前キリンで開発した「醸造匠AI」は、分析値予測とレシピ探索の機能を搭載した、ビールの開発予測システムです。一方で今回は、新たにクレンジング剤をターゲットにして、「AI技術(機械学習)」に加えて「シミュレーション技術」を取り入れたシステムの開発に挑戦しています。AIを扱うのが私、化粧品成分とその組み合わせに関する実測データと界面化学的な知見をファンケルの三譯さん、分子シミュレーションを荒井先生が担当しています。キリンとしては、さまざまな分野やターゲットに対して、AIを活用して入力から出力を予測する技術を開発、蓄積し、汎用化していくことで、食からヘルスサイエンスまであらゆる領域で「ものづくり」を変革することを目指しています。

図1 ものづくりを料理(カレー)に例えると…

材料や調理法のデータを入力すると、できるカレーのスペックを予測してくれるAIや、作りたいカレーのスペックを入れると材料や調理法を提案してくれるAIがあったら非常に便利。

図2 三者の協働体制

キリンのAIとファンケルのデータを活用した「レベル1」モデル

──これまでにない先進的な取り組みだとわかりました。今回の具体的な研究内容を教えてください。

三譯

洗浄剤の未来をつくる研究です。通常のスキンケアのステップは、クレンジング剤でメイク汚れを落とした後、洗顔料で皮脂などの汚れを落とすのが一般的です。しかし、女性の社会進出による時短ニーズや、環境負荷低減意識の高まりから、「クレンジング剤と洗顔料を1本に合体できないか」と考えたのが本テーマの発端です。ここで問題になるのが成分の設計です。オイルと洗浄成分で構成された油性洗浄剤と水と洗浄成分、保湿成分で構成された水性洗浄剤。クレンジング力と、洗い流し後のさっぱり感というそれぞれの特徴があり、両立するのが非常に難しいという課題があるのです。

濱口

その相反する特徴をあわせ持つ「洗浄力が高くて、さっぱり洗い流せる水性クレンジング剤」をAI活用によって実現しようというのが今回のチャレンジですよね。

三譯

そうです。実は、化粧品開発には膨大な時間と労力がかかります。水、オイル、洗浄成分、保湿成分など、成分の組み合わせは無限。何百回ものトライ&エラーを経て、ようやく一つの製品が完成するのです。私自身、今回の研究でも、濱口さんと出会うまでに500回以上のトライ&エラーを重ねていました。

荒井

すごい回数の実験が必要なんですよね。

三譯

そこでAIの出番です。これまで蓄積した実験データをAIに学習させ、化粧品原料の配合から洗浄率(メイクの落としやすさ)を予測するシステムを開発しました。過去の実験データに加えて、各原料成分の親水性・親油性、成分構造などの情報を与えたところ、R2=0.77という精度で予測できるようになりました。さらに、このシステムが予測した配合の化粧品を実際に試作してみたところ、メイクがしっかり落ちることも確認できたのです。

図3 開発した予測システムの精度

AIの予測洗浄率と、実際の洗浄率はR2=0.77の精度で一致した。

図4 モデル洗浄剤の各種汚れに対する洗浄効果

左画像の上から、アイライナー、フィルムマスカラ、口紅、クリームファンデーション、赤色に着色した皮脂、泥汚れを示し、右画像は洗浄後の状態
濱口

ところが、クレンジング剤の開発には独特の課題があるんですよね。

三譯

洗浄成分にはいろいろな形があります。それらがクレンジング剤の中で集まって、さらにいろいろな集合体を作り、刻々と変化するのです。この形が洗浄率に影響するので、予測精度をさらに上げるためには形のデータは必要不可欠なのですが、どんな形をしているのかを実測して数値化するのはとても困難で、学習させるための過去データがないのです。

  • クロスバリデーションによる精度評価。過去の実験データを10分割し、9割のデータで学習させ、残り1割を予測させて実測値と照合することを10回繰り返して精度を算出した。

慶應義塾大学の分子シミュレーション技術が加わった「レベル2」モデル

──そこでさらなる精度向上に向けて、荒井先生との協働を開始したのですね。

三譯

はい。荒井先生の技術を活用して、洗浄成分が形成する集合体の形を分子レベルでシミュレーションし、イメージ化しました。すると、洗浄率が低いものと高いものでは形が大きく異なることがわかったのです。

荒井

簡単に言うと、複雑な形をとるものほど洗浄率が高く、単純な形のものほど低い傾向にありました。次のステップとして、シミュレーション結果から、成分の広がり方や表面積、界面張力、各成分の位置などの情報を抽出し、数値化してAIに学習させることで、予測精度を上げることを目指しています。

濱口

AIだけでは越えられなかった壁を、分子シミュレーションで突破する。異なる分野の技術の融合で、ブレイクスルーできるのではと期待しています。

荒井

シミュレーションもなかなか一筋縄ではいきません。異なるバックグラウンドを持つ三者が集まるからこそ、新たな発見や良い結果につながることも多いです。分子をモデル化する際、理論だけではうまくいかない場合、過去の経験や化学知識が豊富な三譯さんのアドバイスで、シミュレーションの結果がよくなることもありますよ。

濱口

現在の予測精度は、まだ現場の熟練技術者には及びませんが、データを集めながら、粘り強くAIを育成していこうとみんなで挑戦しているところです。AIの開発や導入は、最初は苦労の連続ですし、従来のやり方より遠回りになることもありますが、システムが確立できれば必ず次世代が楽になる。今より良いモノができるようになる。そう信じて、研究を進めています。

図5 集合体の分子シミュレーション結果と洗浄率

シミュレーションの結果、構造が複雑なものの方が洗浄率が高い傾向にあった

図6 集合体の分子シミュレーション結果からデータ抽出

さまざまなシミュレーションを行い、データを抽出して数値化し、AIに学習させる

オープンイノベーションが実現する理想的な予測システム

──普段は別々の組織で仕事をされていて、共同研究がスタートするまでは接点がなかったそうですが、3人の出会いはどのようなものだったのですか?

三譯

濱口さんと私の出会いは2019年。キリングループ内の技術交流イベントで、私の発表を聞いた濱口さんが声をかけてくれたんです。

濱口

私はもともとAIをものづくりの現場に生かす研究をしていました。三譯さんの発表を聞いて、開発プロセスに私の研究が生かせるのではないか、と思ったのです。キリングループは事業領域が幅広く、1つの研究をさまざまな出口に生かせる可能性があるのが良いところですね。

三譯

私自身は、それより前の2016年頃から、クレンジング剤と洗顔料を合体させた製品を作りたいと思い続けていましたが、製品化のめどが立たず、研究データだけを地道に積み重ねていました。ところが、濱口さんと出会い、2社で共同研究が始まったことで状況が大きく変化。AI活用という視点が社内で話題になり、注目度が格段に上がったので、なんとしてもやり遂げなければならなくなっています(笑)。

濱口

2人で始めた研究でしたが、進めていく中でシミュレーションの必要性を感じ、荒井先生にご相談したのが2020年の11月でしたね。ソフトマター(金属やセラミック以外の柔らかい製品)のシミュレーションが専門の先生を探す中で荒井先生の論文を拝読し、ぜひお願いしたいとメールをお送りしたのが最初でした。

荒井

ちょうど、いろいろな企業から問い合わせが寄せられ始めた時期でした。その中で、私がやりたい方向性に一番マッチしていたのが今回のお誘いです。すぐにお話を伺い、非常に価値があると感じました。シミュレーションを活用した製品開発は、これまでにも多くの研究者が提唱していました。できるはずだと。しかし、実際にできるかどうかわからないままでした。そこに挑戦しようという人が現れたのです。できるかどうかわからないけれど、一緒にやりたいと即答しました。基礎研究が専門でありながら製品開発に携われる点にも大きな魅力を感じました。

濱口

大学院生の横山貴洸さんも加わって、4人のチームが発足しましたね。現在留学中で、この座談会に参加してもらえなかったのが残念です。

荒井

実際に始めてみて、本当に素晴らしいプロジェクトだと実感しています。私の専門は、ソフトマターの分子シミュレーションですが、シミュレーションで理論的に予測できるのは、硬い、柔らかいといった「材料の性質」に限られます。泡立ちがいい、汚れが落ちやすい、肌触りがいいなどの「製品の性質」を予測するのは非常に難しく、大学では扱うことができません。ところが今回、キリンのAI技術と、ファンケルで長年、製品開発に携わってこられた三譯さんの知見を組み合わせることで、分子レベルから製品の性質まで、一気に予測できる可能性が生まれました。個々の取り組みでは予測不可能だったものが、三者が一体になることで一気につながる。素晴らしい可能性に興奮しています。

濱口

シミュレーションのデータさえあればAIの精度が上がるわけではなく、AIに読み込ませる最終段階での職人的な「つなぎの技術」が重要ですから、AI、シミュレーション、製品開発のプロフェッショナルである我々の協働は大いに意義があり、将来的な横展開の可能性も高いといえます。

──共同研究の中で、どのようにコミュニケーションをとられているのですか?

濱口

普段はオンラインで、月に1、2回ほど打ち合わせをします。

荒井

最初は1時間ほど進捗を報告し合うだけでしたが、互いの分野がわかってくるとどんどん議論に幅が出てきて。今では2時間を超えることも少なくない(笑)。いいチームワークができています。

三譯

打ち合わせだけでなく、日頃からチャットを使って気軽に連絡しあっています。社外の異分野の人とこれだけ密にコミュニケーションが取れると、学ぶことも多いですね。

濱口

幅広い領域の方と一緒に仕事ができて、自分にはない技術を使って仕事ができるのは、本当に新鮮です。入社した頃にはまさか自分が、化粧品やシミュレーションに携わることになるとは思ってもいませんでした。洗浄率は予測できても、将来は良い意味で予測不能です(笑)。

AIが研究パートナーとなる日を夢みて

──今後の成果に、ますます期待が高まります。研究開発でのAI活用が進むと、未来はどのように変わっていくでしょう?

濱口

何百回、何千回と実験を繰り返す時間と労力を費やすのではなく、「新しいものを創造して世の中に出す」という研究者本来の時間や能力の使い方にシフトできれば理想的だと思います。また、ブラックボックス問題と言われるのですが、AIのみの利用だと「なぜこういった結果になったのかがわからない」となりがちです。この問題に対して、シミュレーション技術を併用することで分子メカニズムの観点から「なぜ」を補い、人の洞察を深めてくれるパートナーになると考えています。

三譯

そうですね。私自身、シミュレーションによって、自分の経験と過去のデータから「この成分がいい」と感じていたものが明確に数値化され、証明されていくのを目の当たりにしました。今後の成果が自分でも楽しみです。これまで検討してこなかった成分や、新しい成分を使ったらどんな製品ができるか、想像すると楽しいですね。AI活用によって、「つくってみなければわからない」というものづくりの現状が、「つくってみなくてもわかる」「つくったあとのバージョンアップに役立つ」という方向に向かうと、非常に大きな知見の蓄積になると思います。

荒井

繰り返しになりますが、基礎研究から製品開発まで、一貫して予測できることで画期的な未来が開けると感じます。とはいえ、正解のわからないものへの挑戦ですから、そこに至るまでの道のりは容易ではありません。やり直したり元に戻ったりの連続で、しんどいことも多いですが、なかなか見えない山頂を目指し、みんなで乗り越えていきます。

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  • 組織名、役職等は掲載当時のものです(2022年12月)