ストーリー
記事公開:2021年9月

世界初の「ヒトミルクオリゴ糖(HMO)大量生産技術」で、粉ミルクを母乳に近づける

  • 機能性物質生産

~微生物を活用した発酵生産技術で、社会課題解決に貢献~

ヒトの母乳には、ヒトミルクオリゴ糖(HMO)という母乳独自の栄養成分が含まれていますが、生成方法や機能の多くはまだわかっていません。世界中で開発競争が激化するなか、キリングループの協和発酵バイオとキリン中央研究所は、微生物を用いた独自製法でHMOの大量生産に成功。事業化に向けてプロジェクトを牽引するマネジャーと、前例のない挑戦に燃える若手研究員を紹介します。

簗島謙太郎(やなしま・けんたろう)

協和発酵バイオ(株)R&BD部

2007年入社。アミノ酸やHMOの製法研究に従事した後、製品開発を経て、事業開発と研究開発を担うR&BD部へ。HMOの事業化を中心となって進めている。

杉田智惇(すぎた・ともとし)

キリンホールディングス(株)R&D本部 キリン中央研究所

2018年入社。入社時よりHMOの研究を担当し、生産菌開発、製法基盤研究に従事。

木村早佑(きむら・さすけ)

キリンホールディングス(株)R&D本部 キリン中央研究所

2015年入社。オルニチンやシトルリンの機能解明や新素材の開発に従事した後、2020年よりHMOの機能研究に取り組む。

母乳の神秘「ヒトミルクオリゴ糖(HMO)」

HMO事業を統括する簗島謙太郎マネジャーは研究員出身。事業化の実現を目指しMBAも取得している

「母乳育児は国際的に奨励されていますが、母乳で育てられない人もいます。母乳に近い粉ミルクがほしいというのが世界中の親の願いです。しかし、現在の粉ミルクには母乳特有の栄養成分HMO(Human Milk Oligosaccharide:ヒトミルクオリゴ糖)がほとんど含まれておらず、近いとは十分にいえません。母乳と粉ミルクの最大の違いはHMOにあると言っていいでしょう。私自身も3人の子がおり、子育てを通じて母乳のすごさを痛感しています」
こう話すのは、簗島謙太郎マネジャーです。ヒトミルクという名前からもわかるように、HMOは、牛乳など他の哺乳類の乳には見られない、ヒトの赤ちゃんのための重要な栄養素です。HMOは総称で、250種類以上の成分があることがわかっていますが、人工的に生成するのは非常に難しく、現在までに製品化されているHMOは世界全体でもわずか2種類。ほとんどの粉ミルクに配合されていません。

こうしたなか、協和発酵工業株式会社東京研究所(現・キリン中央研究所)は1990年代からいち早く、HMOを生成する研究に着手しました。創業当時から持つ発酵生産の技術を生かせるのではないかと考えたのです。
「そして2000年、革新的な製法を開発。世界的なブレイクスルーとなりました。この製法をもとにこれまで量産化と事業化を進める中で、数えきれないほどの研究員が関わっています。我々の技術によってHMOを安く大量に製造・供給できれば、HMOの入った、より母乳に近い粉ミルクを世界中に届けられる。我々が世に出そうとしているHMOには、20年以上にわたり関わってきた研究員の思いが詰まっているのです」

微生物の力で菌株を創出し、3種類のHMO製法を確立

開発した製法とは、菌の力を使い発酵生産するというものです。「HMOを化学合成しようとすると工程が複雑で莫大なコストがかかりますが、発酵生産は低コストで、工程もシンプルです。原材料も、HMOを生産する菌株と、菌のエサおよびHMOの原料となる糖類、菌が育つ培地のみ。菌を培養し、発酵させていく中でHMOが大量に生成されるのです」(簗島マネジャー)

図1のように、HMOを生産する菌をつくり(菌株創出)、培養して菌を増やし、菌とともに増えたHMOを精製することで、大量生産が可能になります。HMOの種類によって適切な菌株や培養条件は異なるため、開発は種類ごとに進める必要があります。協和発酵バイオとキリン中央研究所では、母乳中の含有量が最も多いHMO「2FL(2’-フコシルラクトース)」のほか、世界的にも製品化の前例がなかった「3SL(3’-シアリルラクトース)」「6SL(6’-シアリルラクトース)」の計3種類の製法を確立しました。これらを製品化して世に出すとともに、他の種類のHMOについても製法開発を進めています。

HMOを生産する菌を培地に入れ、さまざまな条件で制御しながら攪拌して培養する。菌が増えるにつれて、培地の中に大量のHMOがたまっていく

図1 HMOの発酵生産

ゼロから1をつくり出す、菌株創出の面白さと難しさ

未来を見据え、菌株創出や製法の基盤研究に取り組んでいる杉田智惇研究員

HMOの研究開発の中心を担っているのは、20代から30代の若手研究員たちです。「年齢やキャリアにかかわらず、若手の発想が尊重される風土があるので、アイデアを出しやすいです」と話すのは、2018年入社の杉田智惇研究員。技術や知見を歴代の担当者から受け継いで、まだ製法の確立できていない新しい種類のHMOの菌株創出や製法開発に打ち込んでいます。
「学生時代は薬学部で自然界の有用な物質が微生物の中でできるメカニズムを解明する研究を行っていました。HMOを知ったのは入社後でしたが、ゼロから1をつくり出すことに興味があるので、担当を任されて嬉しかったです」

HMOの構造は種類によってさまざまですが、主なものはラクトースに、フコースやシアル酸が結合した構造を持ちます。フコースやシアル酸は糖からの変換によってつくられるため、例えば図2のように、原料となる糖をシアル酸に変換し、さらにラクトースに転移させることでHMOの一つであるシアリルラクトースが合成できます。このプロセスを自ら体内で行うのがHMO生産菌です。ただの菌(野生の大腸菌など)にはこのような能力はないため、遺伝子工学を用いて少しずつ菌株を進化させ、HMO生産菌をつくりだします(図3)。菌株創出の世界は壮大で、長い道のりを必要とするのです。

図2 HMO合成の模式図

図3 HMO生産菌の能力

「HMOの種類ごとに菌株はまったく異なります。フコシルラクトースやシアリルラクトース以外のHMOも数多くあり、一つひとつ特徴や性質が異なるので1種類のHMOの菌株や製法が別の種類のHMOにそのまま使えるわけではないのです。一つずつ地道に研究を進めていく、手探りの連続です。世界中の研究者がHMOをテーマに競っているので、焦ることもありますが、自分のひらめきやアイデアで良い結果が出たときが何よりの喜びです。実験室で、一人ガッツポーズすることもありますね」

前例のない研究分野。未知の機能性を解明し、価値を届ける

HMOの未知なる生理機能解明に取り組む木村早佑研究員

製法研究と並行し、重要なのが安全性と機能性の研究です。担当する木村早佑研究員は、学生時代から食品成分の生理機能を解明する研究を行っており、健康食品を手がけたいと2015年に入社しました。
「新製品の研究に携わり、未知の生理機能を自ら解明してブレイクスルーを起こしたいと常々思っていました。上司に伝えたところ、HMOという巨大プロジェクトに参加でき、非常にやりがいを感じています」

現在取り組んでいる研究は二つです。
「一つは、開発したHMOの安全性の確認です。赤ちゃんが口にするということもあり、我々のつくったHMOが本当に安全なのかという問いにしっかり答えられることが不可欠です。もう一つは、HMOの健康機能性を解明し、赤ちゃんだけでなく成人にも有用な素材にできないかを探ることです」

HMOには、免疫システムの活性化、腸内環境の改善、脳機能の発達・維持など、成人にも役立つ健康機能があると言われています。認知症などの社会課題解決に寄与できる可能性も広がっています。
「HMOの健康機能はいろいろ報告されているものの、まだまだ解明は進んでいません。種類ごとに機能は違いますし、微量しか含まれなくても大きな効果をもたらすものあります。HMOの健康機能を明らかにして、お客さまにわかりやすく伝えていくことが使命だと考えています。杉田くんとは研究内容はまったく別ですが、研究員同士の距離が近いので、何か知りたいときにパッと相談できるのが心強いですね」

研究員の努力の成果を、事業化によって確実に世に出す

こうした技術力をベースに、HMOを世の中に届けるべく事業化を推進する簗島マネジャーには、一つの思いがあります。
「研究員時代に痛感したのですが、研究員が頑張って、すばらしい成果を出しても、事業化できなければ世に出ることがなく、埋もれたままになってしまいます。それはあまりにももったいない。その思いが私の原動力になっています。だから私は、この研究成果を確実に世の中に出していきたい。そして、赤ちゃんだけでなく、さまざまな世代の人々の健康に貢献したい。我々のつくり出すHMOには、それができると確信しています」

HMOをめぐる激しい競争の中で、勝負を決めるのは技術力。粉ミルクを十分に母乳に近づけられるのは、まだまだ先の未来かもしれません。しかし、一つひとつのHMOを地道に研究し、確実に世に出していくことで、その未来が一歩ずつ近づいてくるのは確かです。HMO研究は、これからもずっと引き継がれ、未来を変える力になるでしょう。

3人が一堂に会する機会は少ないが、研究に懸ける想いは同じ
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  • 組織名、役職等は掲載当時のものです(2021年9月)