ストーリー
記事公開:2018年12月 / 更新:2021年12月

留学ではなく大学に駐在。
新たなスタイルで革新技術の習得・発展に挑む研究者

  • 高度成分分析

~東京大学の「結晶スポンジ法」で、競争優位の“ダントツ技術化”を目指す~

キリンの研究開発には幅広い領域があります。その中で、既存の事業の枠組みを超え、将来の競争優位を実現する独自技術の創出や獲得を目指しているのがキリン中央研究所です。谷口慈将研究員は、分子構造解析という目に見えない化学の分野でキリンだけの“ダントツ”技術を確立すべく、最先端の大学研究室に駐在して技術習得する道を選びました。そして、画期的な研究成果を次々に挙げています。どのような技術を、どのように習得・発展させようとしているのでしょうか。駐在先の東京大学で話を聞きました。

谷口慈将(たにぐち・よしまさ)

キリンホールディングス(株)R&D本部 キリン中央研究所 物質化学グループ 研究員

大学院の農学研究科を修了後、基礎研究にも真摯に取り組む風土にひかれて2006年にキリンビール入社。成分分析のスキルを生かし、機能性素材に含まれる物質の探索やトクホ製品の開発を手がけた後、ホップ関連の素材開発に従事。2015年、キリングル―プの競争優位の基盤となる新技術の開発を担う現部署に異動し、2017年6月~2019年5月、東京大学大学院工学系研究科応用化学専攻藤田研究室に派遣駐在。2017年農学博士号取得。

天然物化学者や分析化学者を驚かせた学会での発表

「わからなかったものがわかるようになる面白さと、これまでになかったものを世に出すことへのやりがい。研究の醍醐味は、それに尽きます」生き生きと語る笑顔が印象的な谷口慈将研究員は、去る2018年10月、東京大学大学院の藤田誠教授との連名で行った学会発表(*1)で、ビール醸造科学者にとどまらず、天然物化学者や分析化学者たちから大きく注目されました。これまで解明されていなかった、ビールに含まれる微量の苦味成分を次々に明らかにし、その分子の絶対立体構造を特定するという快挙を成し遂げたからです。詳しくは後述しますが、先行研究では5種類の物質を突き止めていたにとどまっており、その絶対立体構造は推定されているのみでした。ところが、谷口研究員は、わずか3カ月の間に13種類もの化合物を特定し、絶対立体構造まで明らかにしたのです。

  • (*1)第6回香料・テルペンおよび精油化学に関する討論会「ホップ(Humulus lupulus L.)由来新規苦味成分群の結晶スポンジ法による網羅的絶対立体構造」谷口慈将,藤田誠

図1 谷口研究員が分子構造を特定した13種類の化合物

ビール醸造時に生成する苦味成分イソフムロンは、ビール保存中にその一部が分解されてさまざまな物質に変化します。しかし、その物質が何かは未解明でした。先行研究で報告されていた物質は5種類のみでしたが、谷口研究員は13種類もの物質を明らかにし、難解といわれていた分子構造の特定にも成功しました。

見えないものを観測する。分子構造解析の難しさ

なぜ、この研究発表が人々を驚かせたのでしょうか。そこには分子の立体構造を解析する難しさがありました。「分子とは、その物質の化学的性質を備えた最小の粒子のことです。物質の性質を知るには分子構造を解析する必要がありますが、分子を肉眼で見ることはできません。質量スペクトル分析やNMRスペクトル分析などの手法により分子構造情報が得られる場合もあります。しかし立体構造、とりわけ鏡で映した関係にあり重ね合わすことができない2つの分子を見分ける絶対立体構造の解析はハードルが高く、立体構造を直接観測できる唯一ともいえる方法は、X線結晶解析というもので、物質を結晶の状態にしてX線を照射し、得られる回折のパターンをもとに構造を解析します。しかし、世の中には液状化合物のように結晶化しない物質や、結晶化に必要な量が足りない物質も多いので、非常に難易度が高いのです」

結晶化するには、化合物の分子が規則正しく並んだ状態にする必要があります。結晶化が可能な物質ですら、解析できるだけの良質な結晶ができるかどうかは、「仕込んで祈るしかない」いわば運まかせといわれるほどです。わずか1粒の結晶を得るのに何年もかかる場合も少なくありません。X線による構造解析法が世に出てからこの100年の間、結晶化が最もハードルが高い工程となっており、「X線構造解析における100年問題」とさえいわれています。

結晶スポンジ法を発明した藤田誠教授(東京大学大学院)と、研究室でディスカッションをする谷口研究員。

100年問題を解決!革命的な「結晶スポンジ法」との出会い

谷口研究員は、2006年の入社以来、学生時代から手がけていた分子構造解析のスキルを生かし、機能性素材に含まれる有効成分の同定や、化合物の構造解析、分析方法の開発などに携わってきました。これまでに30種以上もの新規化合物を発見し、自ら命名するという実績も挙げています。しかし、単離した化合物の立体構造解析の難しさには常に直面してきました。

そうした専門知識と技術力をさらに生かし、ビールや清涼飲料などの綜合飲料の枠を超えた幅広い事業展開につながる独自技術の開発をミッションとして与えられたのが2015年。「新しい事業を切り開いていくには、真にオリジナリティのある技術が必要です。既存の技術をブレイクスルーして、新技術を開発していきたい。そのための突破口となる先端技術を以前から探し求めていました」そこで着目したのが、東京大学大学院の藤田誠教授が開発した「結晶スポンジ法」です。「X線構造解析において、これまでネックだった結晶化を不要とする技術で、革命的、革新的ともいえるものです。2013年に科学誌『ネイチャー』に発表された当初から注目していましたが、いまこそ、この技術を学び、発展させていきたいと思いました。そこで、ぜひ研究テーマとして取り組みたいと社内で提案したのです。2016年夏のことでした」

図2 結晶化が不要。結晶スポンジ法の原理と特徴

結晶スポンジ法の最大の特徴は、解析したい物質を結晶化させる必要がないことです。あらかじめ、直径0.5~1ナノメートルの穴が無数に開いた細孔性の単結晶(結晶スポンジ)を作成します。良質の結晶スポンジ1粒を選び出し、その「結晶化した空間」に解析対象の化合物を含むサンプル溶液を流し込むと、化合物が規則正く並びます。それをX線で測定すると、分子構造を解析することができます。

東京大学の研究室に駐在し、技術の習得に取り組む

作成した結晶スポンジを顕微鏡でモニターに映し出し、良質な粒を選んでスポイトで吸い取ります。

上の図のように、結晶スポンジ法は、長年の課題であった結晶化を必要とせず、極微量で解析できるという画期的な分析方法です。開発した藤田誠教授の元には、谷口研究員のみならず、多くの企業から問い合わせが寄せられていました。そこで2017年、企業が出資する「社会連携講座」が発足。11社が参加し、トップサイエンスをイノベーションにつなげるべく、アカデミアと産業界を橋渡しする組織枠組みが生まれました。谷口研究員は、こうした環境の下で研究に取り組むやりがいを次のように話します。

「結晶スポンジ法は、溶液を結晶スポンジに浸す条件設定が重要です。これはトライアンドエラーを積み重ねる中で感覚が研ぎ澄まされていくもの。最初の1年間は試行錯誤の繰り返しでした。また、社会連携講座では、東大の研究者や他社の駐在研究員と机を並べて、実験についてディスカッションできることも新鮮でした。社会連携講座でのリーダーを務めているので、教授とコミュニケーションをとる機会に恵まれたことも幸運でした。自社を客観的に見られるようにもなりこうして外に出たからこそ得られるもの、持ち帰るものが多いと実感しています」

キリンならではのテーマとして、ホップに含まれる化合物に着目

東京大学への駐在期間中に基礎的な技術や機器の操作方法を身につけるだけでなく、学術的に貢献する成果を挙げることも、教授から課された目標の一つでした。「未知なるものに挑戦しながら技術を磨くことこそ、真の技術習得といえます。学会発表や論文化を狙うことができ、国や産業界へのアピールにもつながり、キリンならではのテーマは何かを考えました。そこで、私自身も長年研究してきたホップを取り上げることにしたのです」 ホップに含まれる化合物の中には、構造解析が難しく、分子構造が決められないものが多数あります。化学者が見たときに構造的に興味深いものも多く、キリンしか保持していない物質もあります。こうして、結晶スポンジ法を用いた谷口研究員の研究が始まりました。

結晶スポンジ法を用いて、難問だった分子構造を次々に特定

溶液を浸した結晶スポンジを装置に取り付けている様子です。さまざまな角度からX線を照射し、解析していきます。

まず着手したのが、α酸というホップの苦味成分の解析です。「α酸の立体構造は50年前に特定され、これまで信じられてきました。ところが2013年、実は構造が逆だと指摘するレポートが発表されたのです。それを結晶スポンジ法で確かめてみようと考え、解析した結果、確かに逆でした。もう少し早くこの技術を知っていたら、私自身の手でビール醸造の教科書を書き換えることができたかもしれません」ホップの解析に手応えを感じた谷口研究員は、続いて、これまでに自身で発見していた約30種の新規化合物のうち、どうしても分子構造を特定できずに未決定だったものの解析に挑戦。それらの特定にも成功したのです。

そして、次なるテーマとして取り組んだのが、冒頭で紹介した、ホップ由来の苦味成分イソフムロンがビール中で変化して生じる物質の分子解析です。先行研究の5種類の物質をはるかにしのぐ、13種類もの化合物を特定するという快挙でした。苦味成分の制御など、ビール醸造の技術開発においても大きく貢献する成果だといえます。

習得した技術を、製品開発に生かす

2019年、谷口研究員は派遣駐在期間を終えてキリンに復帰しました。復帰後も結晶スポンジ法をフル活用して、キリンの独自素材の構造解析や、ビール醸造における化学反応の解明などを行っています。協和キリンと協働し、結晶スポンジ法と超臨界流体クロマトグラフィーを組み合わせた新たな分析プラットフォームも開発しました。「分子構造解析は、ビール醸造に限らず、あらゆるものづくりで求められる技術です。技術を学問で終わらせることなく、製品開発や品質向上に生かすことで社会に貢献したい。今後も技術を発展させ、キリングループ各社だけでなく他社からも必須とされる技術を確立することが夢であり、目標です」。

自身の例をきっかけに、若い人たちにもどんどん社外に出てほしい。存分に吸収し、持ち帰ってより良くしていこうとの気概をもってほしい。谷口研究員は、はつらつとした笑顔でこのように語ります。技術革新により、知られていなかった物質に驚くような機能性が発見されるかもしれません。目に見えないミクロの世界での探求は、これから大きく花開こうとしているのです。

  • このページの情報は研究成果の掲載であり、商品の販売促進を目的とするものではありません。
  • もともと飲まない人に飲酒を勧めるものではありません。
  • 飲酒にあたっては、適量飲酒を心がけてください。
  • 組織名、役職等は掲載当時のものです(2018年12月)