ストーリー
記事公開:2011年4月

第43回江田賞受賞記念!
「ビール酵母」その尽きせぬ魅力を語る(その2)

  • 発酵制御

──商品開発、技術開発、醸造のブラックボックスを解明する立場から

その1」では、ビール醸造での酵母の役割や、生き物としての酵母のユニークさを紹介しました。おいしいビールづくりのために生き物として複雑なビール酵母を制御するのはとても難しいという話に、あらためて驚かれた方も多いのではないでしょうか。今回は、高品質のビールをつくり続けるためにどのような技術が必要なのか、ビール酵母の研究はどこまで進んでいるのかについて聞きました。

吉田聡(よしだ・さとし)

キリンホールディングス(株)フロンティア技術研究所 研究開発担当 主任研究員

善本裕之(よしもと・ひろゆき)

キリンビール(株)技術開発部 酒類技術開発センター 主査(酵母発酵グループリーダー)

吉崎成洋(よしざき・しげひろ)

キリンビール(株)技術開発部 酒類技術開発センター 技術員(酵母発酵グループ)

徹底して“酵母の生理状態”にこだわる

善本

我々が目指しているのは、原材料の種類などにかかわりなく、常に商品のコンセプトに合った高品質なビールを製造できるように酵母を良い状態に整えることです。そこで重要となるのが、酵母の生理状態を把握することです。

吉崎

酵母の生理状態は、いつも同じというわけではなく、良い時もあれば、悪い時もあります。私たち人間も、その日の体調や気分によって仕事のはかどり方が違ったりしますよね。それと同じで、酵母の生理状態によって、ビールの味や香りも違ってきます。

善本

高品質なビールを製造するためには、酵母の生理状態が良いことが重要となります。酵母の生理状態が良ければ、発酵が良好に進み、エステル等の香味バランスが良いビールができあがります。悪ければ、発酵が遅くなったり、好ましくない香味成分が発生してしまいます。酵母の生理状態をしっかりと見極め、できるだけ良い状態の酵母を選別することが重要となります。

吉崎

実際のビール醸造では、発酵が終了すると、酵母同士がくっついて塊りをつくり、タンクの底に沈みます。沈んだ酵母は、次の発酵に使いますので、回収した酵母の生理状態が良いことが大切です。

善本

そこで酵母の生理状態を把握する技術が求められるわけです。様々な手法が考えられる中で、酵母の生理状態をどの因子で把握し、それをどのように測定するかが技術開発上のポイントとなります。

酵母の生理状態は、どのようにして判定するか

では、どのような手法で酵母の生理状態を見極めるのでしょうか。

フローサイトメーターという機械を使って酵母活性を分析する善本主査
善本

酵母の生理状態を効果的に把握する方法として、メチレンブルーという試薬を用い生死を判定する「メチレンブルー染色法」や、pHの低い環境の下で、細胞内pHを蛍光光度計やフローサイトメーターを使い測定する「酵母活性測定法(ICP法)」があります。また、必要に応じて組織染色技術や成分分析技術を使用し、酵母の形態や中身を多面的に解析しています。そして、最も大切にしていることは、でき上がったビールの香り、味、色などを官能で評価することです。

吉崎

「官能評価」とは、機器や化学分析による評価ではなく、人間の五感を用いて行う評価のことですね。

善本

高度な分析機器を使用しても、やはり、ビールを飲んだ後の人間の感覚がとても大切です。官能評価の際も、実際に飲んでみたときの香りや味、酵母の状態との関係などについて徹底的に話し合っています。

吉田

先ほど、「酵母の中身を解析する」という話が出ましたが、私のいる研究部門では、まさにこうした面で貢献し、技術開発を支えたいと考えています。例えば人間の場合、血液中のγ-GTPの数値で肝機能の状態がわかりますよね。先ほど出たICP法は、酵母が細胞内の水素イオンを排出する力を測定しているのですが、これは酵母が麦汁の糖分を取り込む力、つまり発酵力と密接な関係があるんですね。他にも、酵母のつくる硫黄系化合物がビールの香味に影響することがわかっています。我々は、その硫黄系化合物がどういう経過でできるのかを生成量と遺伝子の関係から紐解きました。そういった研究成果の一つひとつが、活性についての仮説を立てる際に役立つのではないかと思っています。

善本

今回の江田賞受賞(後述)につながった研究成果ですね。このような醸造の原理原則を明らかにする研究は、本質的な原因を探る上で極めて重要となります。“なぜそうなったか”の仮説を立て、検証することにより、醸造のブラックボックスは、少しずつ解明されていくのです。

様々な手法で、酵母の中身に迫っていく。吉田主任研究員らの地道な研究が高品質なビールづくりを支える

一刻を争いながら、製造現場での課題を解決

ビール酵母に関する技術開発は、生産の現場である工場と密接に関わっています。安定して高い品質のビールをつくり続けるには、常に酵母の生理状態を気にかけ、良い状態に保つことが大切なのですね。

吉崎

工場では日々、製品をつくっているので気が抜けません。私たち酵母発酵グループは、発酵工程に課題が生じると、工場の技術者と一体となって原因解明や対応策に取り組みます。酵母を工場から酒類技術開発センターに運んできて詳しく検査することもあります。わからないことがあれば皆で話し合う。仮説と検証の繰り返しです。

善本

原因究明は、まさに時間との勝負になります。原因が酵母にあるとは限りませんから、仕込みや貯蔵など、他の工程を担当しているグループとの連携も大切です。原料や仕込みなどの前工程に原因がある場合もありますし、発酵工程が原因で後工程に問題が生じている場合もあります。発酵での状態を見ながら、全体がどうなっているかもしっかり見極め、話し合いによって仮説と検証を繰り返しながら迅速に原因を見極める。高品質のビールを製造するためには、工程間のチームワークがとても大切となります。

吉田

工場との連携でいえば、良好な状態の酵母を工場へ配布するのも、酵母発酵グループの重要な仕事ですね。

善本

酵母を工場へ配布する際は、酵母の染色体構成に異常がないか、遺伝子に変異が発生していないか、発酵特性に問題がないかなど、様々なチェックを経てから送付しています。酵母の種菌を大切に管理し、必要に応じて工場に配布するというのが、「その1」でもお話しした「酵母バンク」の重要な仕事の一つです。

いつの時代も、人間の感覚が大切。試験醸造中のビールの味や香りを確かめる吉崎技術員

酵母の「個性」を知り尽くせ!

酵母バンクの酵母。試験管の中の白い部分が酵母のコロニー
吉崎

「酵母バンク」には、いくつかの重要な役割があります。第一に、約600種類の種菌一つひとつを、何十年経っても変化させずに保管すること。増殖しないように冷凍保存などをして、必要なときに良好な状態の酵母を工場へ提供できるようにしっかりと管理しています。

善本

酵母を長期間保管する上では、酵母の個性や特徴が変わったり、劣化したりしないように、細心の注意を払わなければなりません。

吉崎

また、保有している酵母種株の個性を調べることも、酵母バンクの重要な役割です。ただ、一言で「個性を調べる」といっても、これが実に難しいのです。同じ条件で培養していても、発酵の経過が早かったり遅かったり、香気成分が多い少ないなど、株によって個性がまったく違います。さらに、原料や温度、通気などの条件を変えながら実際にビールをつくってみるのですが、それぞれの酵母の個性をうまく引き出すにはどんな条件にすればいいのかが一番の悩みどころです。思わぬ条件で、意外な個性が表れたりしますからね。そんな中から、「こういうビールには、この酵母だ!」というのが見つけられたら本当にうれしいと思うんです。

吉田

商品コンセプトに沿ってお客様の嗜好に適したビールをつくるためには、最適の原料、最適の酵母、最適の製造条件を選定することが重要ですね。目的に応じて最適な酵母を選ぶのは重要な仕事といえるでしょう。そのビールにとって良い酵母を提案するには、多様な個性を揃えておくことも必要だし、それぞれの能力や行動パターンもよく知っておかなければならない。

善本

目的にあった酵母を選択するためには、酵母の醸造特性についての情報が重要となります。味や香りは酵母の種類でも決まりますから、その情報をどれだけ持っているかが最適な酵母と巡り会う大切なポイントになります。様々な酵母を発酵させて、香りや味など、そこに表れるいろいろな表情を個性として見ていく。それは、この仕事の楽しみでもありますね。

吉田

だんだん我が子のように思えてきたりもするでしょうね…(笑)。

吉崎

毎回、発酵の様子を見ながら、これはどういう商品に合うだろうか、どんな香りを生んでくれるだろうか、と。やはり、手応えのある酵母はかわいくなりますね(笑)。こういう制御をすればこういう味になるだろうなという予測がうまく当てはまると。まあ、そこは生き物なので、そう簡単には言うことを聞いてくれないんですけど(笑)。

一つひとつのビール酵母と“対話”を続ける吉崎技術員

酵母の原理原則を追究し、2度目の江田賞受賞!

高度な研究によって、酵母の姿を明らかにしていく吉田主任研究員

こうした中、「メタボロミクスを利用した下面発酵酵母の育種」の研究により、2010年、吉田主任研究員が日本生物工学会第43回生物工学奨励賞(江田賞)を受賞しました。江田賞は、醸造に関する学理および技術の進歩に寄与した会員に対して授与されるもので、2000年には、「酵母における酢酸エステル生成制御機構の解明」の研究で善本主査も受賞しています。

吉田

先ほどの、「酵母の中身を解析する」という話題とも関連しますが、今回の受賞は、「メタボローム解析」という新しい手法を用いて、遺伝子だけではわからなかった酵母の代謝物質(メタボローム)の流れを解析することで、実用的な酵母を育種するポイントを突き止めたことが評価されました。

善本

「メタボローム解析」は、全ゲノムの解読に続くポストゲノム時代の解析手法のひとつで、代謝物質を網羅的に解析するものですね。分析機器や情報処理が高度化したことによって、酵母細胞内の代謝物質を網羅的に追跡できるようになってきました。

吉田

メタボローム解析でつかんだ硫黄系化合物の代謝の流れをもとに、自然に起きる変異株の中から、酸化を抑える亜硫酸を多く生産しつつ、好ましくない香味のもととなる硫化水素の生成が少ない酵母株を選抜することができました。これにより、遺伝子をとらえつつ、組み換えを用いることなく、ターゲットとする性質を持った酵母を選抜する可能性が広がったのです。

善本

今回選抜した酵母の特性は、試験的な醸造でも確認できました。また、新たな硫黄系物質の代謝経路も発見されていますね。代謝物質の網羅的な解析が酵母の生理状態を把握する技術の一つとして有効であることも明らかになってきています。こうした「原理原則」にかかわる研究成果を積み重ねていくことは、酵母のブラックボックスを解明するために非常に重要だと思います。

自然と対話し、酵母の営みを理解していきたい

ビールづくりを支える商品開発、技術開発、研究所それぞれの現場で、ビール酵母との対話は今日も続いています。最後に、3人の今後の夢や目標を聞きましょう。

吉田

私の場合、ビール酵母はもちろんのこと、それ以外の飲料その他も含め、キリングループ全体で使ってもらえる技術や成果を出していくことが目標です。それも、より大きなインパクトのある成果を出していきたいですね。その分、喜びも大きいと思いますから。

吉崎

私はやはり、お客様においしいビールを飲んでいただくことが究極の目標であり、夢ですね。はるか昔から、先人が培ってきたビールづくりの技術をしっかりと受け継ぎ、次の世代へつないでいきたい。そして、皆さんにおいしいビールを飲んでいただければ嬉しいです。そのためにも、やはり酵母のブラックボックス解明につながるような、酵母の状態をより的確に把握するための新たな指標を見つけたいですね。もちろん、チャンスがあれば自分の手で。

善本

酵母の個性を理解し、お客様にビール酵母の魅力を感じていただける商品を提供したい。そこが我々にとって最も大切なことですから。自然の一部であることを念頭において、神秘的とも言える酵母の様々な機能や働きを理解したい。そして、ビール酵母、ひいては、発酵現象を科学的に説明できるようにしたい。長い道のりですが、その取り組みを、これからもずっと続けていきます。

なお、ビールづくりの様子は、全国9カ所のキリンビール工場で実際に見学することができます。ぜひ一度、お訪ねください。

「酵母の声を真摯に聴く」ことを大切にしている善本主査。酵母との対話はこれからも続く

プロフィール

善本裕之(よしもと・ひろゆき)

キリンビール(株)技術開発部 酒類技術開発センター 主査(酵母発酵グループリーダー)

1992年入社。工学研究科博士課程修了(工学博士)。学生時代から酵母の研究を手がけ、入社後は基盤技術研究所(現・キリンホールディングスフロンティア技術研究所)にて研究に従事。1999~2001年、米国スタンフォード大学に留学し、DNAマイクロアレイ解析技術を用いた酵母研究に従事。2000年、「酵母における酢酸エステル生成制御機構の解明」の研究で日本生物工学会第33回生物工学奨励賞(江田賞)受賞。その後、技術戦略部研究企画担当、キリンビール醸造研究所(現・酒類技術開発センター)発酵チームリーダーを経て、2010年より現職。主に酵母や発酵関連の技術開発を担当している。

吉田聡(よしだ・さとし)

キリンホールディングス(株)フロンティア技術研究所 研究開発担当 主任研究員

1994年入社。理学部植物学専攻博士課程修了(理学博士)。日本学術振興会特別研究員。大学院時代から酵母の研究を手がけ、入社後は、ビール酵母のゲノム解析やビール酵母硫黄系代謝物の制御などの研究に携わる。2010年、「メタボロミクスを利用した下面発酵酵母の育種」の研究で日本生物工学会第43回生物工学奨励賞(江田賞)受賞。現在、酵母による物質生産系の開発やメタボローム解析を用いた酵母の代謝解析などの研究テーマに取り組んでいる。

吉崎成洋(よしざき・しげひろ)

キリンビール(株)技術開発部 酒類技術開発センター 技術員(酵母発酵グループ)

1997年入社。農芸化学専攻博士課程(前期)修了。生命現象の解明に興味があり、お客様に近いメーカーで生かせる仕事に就きたいと思い入社。京都工場、千歳工場で醸造担当に従事した後、2002年より醸造研究所発酵グループ、2004年より原料資材部原料担当。2008年、岡山工場で再び醸造を担当し、2010年より現職。現在は、酵母バンク管理ならびに発酵、酵母関連技術開発を主に担当している。

  • このページの情報は研究成果の掲載であり、商品の販売促進を目的とするものではありません。
  • もともと飲まない人に飲酒を勧めるものではありません。
  • 飲酒にあたっては、適量飲酒を心がけてください。
  • 組織名、役職等は掲載当時のものです(2011年4月)