ストーリー
記事公開:2009年12月

ビール酵母の遺伝子の解明につながる
「下面発酵酵母への接合能の付与技術」の開発に成功!

  • 発酵制御

キリンホールディングスのフロンティア技術研究所では、「食と健康」の分野で、キリングループの将来技術の創出のための研究・技術開発に取り組んでいます。

フロンティア技術研究所の小林統主任研究員(写真)の研究グループでは、ビール酵母の遺伝子に関する研究開発を進める中で、ビール酵母の胞子を自在に掛け合わせる技術を開発しました。この技術を使うことにより、様々な性質のビール酵母の掛け合わせから、ビール醸造で重要な性質と遺伝子の関係をこれまでより効率的に解明できるようになります。

小林 統 Osamu Kobayashi

フロンティア技術研究所 主任研究員

1988年キリンビール入社、農学系研究科修了 Ph.D.(農学)
植物開発研究所で細胞融合、イネ育種を研究
1992年より基盤技術研究所(現キリンホールディングス フロンティア技術研究所)
酵母生理代謝の分野でビール酵母のゲノム解析などの研究に携わる

植物の分野からビール酵母の研究へ

世界的にビールの主流となっているラガータイプのビールでは、発酵が進むと酵母同士が集まってタンクの底に沈む下面発酵酵母が使われています。

下面発酵酵母は、パン酵母と呼ばれるタイプの酵母とそれとは異なるタイプの酵母が交雑して生まれてきたといわれています。ゲノム解析によってもそれが確かめられてきましたが、実際にビールを醸造したときにどの様な条件でどの遺伝子が発現してどんな働きをしているのかについては、まだわからないことがたくさんあります。

小林主任研究員は、もともとは植物の育種学が専門で、入社時には植物開発研究所でイネの育種に携わっていました。「ビール酵母の研究をするようになって、植物、とくに農作物で優れた品種を開発するために普通に行われている研究が、ビール酵母ではほとんど行われていないということに気がつき、それをいつかやりたいと思っていました。」

ビール酵母(ここでは下面発酵酵母をそう呼びます)の育種が難しいのには理由があります。ふつう酵母は、胞子をつくった上で、胞子同士が接合して新たな株が生まれます。胞子が接合するためには、a型とα型という異なるタイプである必要があります。しかし下面発酵酵母では、胞子ができるとほとんどがすぐにa/α型という中性のタイプに変化してしまうので、胞子の接合で新たな株が生じることはまずありません。ビール酵母では掛け合わせがほとんどできないのです。

ビール酵母の研究はなぜ必要なのか?

キリンビールでは、ビール酵母を長年にわたって研究してきました。また世界的には、ドイツのミュンヘン工科大学などでビール酵母を含めたビールの研究が盛んに行われています。このような研究機関では、ビールが長年醸造される中で得られたたくさんのビール酵母株もストックされています。またビールメーカーでは、それぞれの地域や原料、ビールのタイプに合った酵母を選んで使っています。発酵、醸造試験を行って酵母を選抜したうえで、生産現場で醸造条件を整えるといった工程を重ね、最適な酵母を最適な条件で働かせることで、おいしいビール造りに努めてきたのです。

「生産現場には、おいしいビール造りの経験則が蓄積しています。とはいえ、酵母の働きに任せている部分が残されているのは確かですので、私は醸造形質に対する遺伝子の関わりの面から酵母の働きに関するブラックボックスを明らかにして、醸造の制御をより正確に行えるようにしていきたいと思います。」

ビール酵母の遺伝子を解明するために様々なアプローチを行っています

ビール酵母は、清酒やワインの醸造で使われる酵母と較べると遺伝子の構成がかなり複雑です。フロンティア技術研究所では、キリンビールと共同で、ビール醸造で発現している遺伝子と成分のデータを解析して、香味成分が生成するメカニズムを解明したり、胞子と親酵母の遺伝子と性質を比較するなどの研究を続けてきました。

(これまでの主な研究成果)

  1. 「ビール酵母とパン酵母ゲノムとの比較」2002年にビール酵母(下面発酵酵母)のゲノムと、パン酵母との比較研究で、ビール酵母の約90%の領域はパン酵母のゲノムと類似していることを示唆しました。
  2. 「発酵中に発現する遺伝子の解析」ビール醸造の発酵中に見られる遺伝子を解析して、日本分子生物学会で発表しています。
  3. 「親子関係を用いた、ビール酵母の香気成分に関する遺伝解析」—2005年には、ビール酵母の香りに関係している成分の遺伝子研究を行いました。
  4. 「メタボローム解析を活用したビール酵母の育種」—2007年には酵母の代謝研究から育種への可能性を探索しました。

「ビール酵母に子供を作らせて、親子で比較するというような研究は世界でもめずらしい取り組みだと思います。兄弟姉妹は似ているけれど違うところもありますよね。ビール酵母からも、いろいろな形質を持った子供たちが生まれてきました。そこを詳細に調べるという研究を以前から進めてきました。しかし一つの親酵母から生まれた胞子だけではなく、異なる親の胞子同士を掛け合わせ、その子供たちを見てみたいと思っても、a/α型の胞子同士では掛け合わせることができない。胞子をもういちどa/aとかα/αにすることはできないか、やってみよう、ということになりました。」

自由な掛け合わせの“壁”となったHO遺伝子

ビール酵母の胞子はどうしてa/α型なのでしょうか

「ビール酵母はa/a/α/αの4倍体で増殖するのが安定した状態なのですが、栄養枯渇など生育条件が悪くなると胞子を形成します。いわば身を縮めて生き延びようとするのです。しかしa/a型やα/α型の胞子ができる場合があります。そのときにはHOという遺伝子がただちに働いて、aからαに、逆にαからaへと変わるのです。そうしてa/α型という状態をつくり、出芽して2倍体のまま増殖していくと考えられます。」

ビール酵母の胞子はすべて接合能のないa/α型なのです。またa/α型ではHO遺伝子の働きが抑制されてしまいます。研究所ではかつてこの自由な掛け合わせの“壁”ともいうべきHO遺伝子を破壊することにより、接合能を持った胞子を獲得する方法を開発しました。しかし、ごくまれにしか胞子が得られないため、掛け合わせを利用して醸造形質と遺伝子の関係を解析するには十分な方法ではありませんでした。

接合能の付与はひとつの通過点にすぎない

「今回は、このHO遺伝子の働きを生かすことにしました。いったんa/αになると働かなくなるHO遺伝子をもう一度働かせてaをα、αをaにすることができないかと考えたわけです。」

HO遺伝子にも働きの弱い遺伝子と強い遺伝子があることがわかってきたことから、働きの強いHO遺伝子を選んで発現させました。これまで“開かずの扉”であったHO遺伝子をもう一度開くことで、a/αをふたたびa/aやα/αのかたちにして、ビール酵母の胞子同士の掛け合わせが自由にできるようになりました。

「アイデアとしては前からもっていたのですが、今はうまくいってほっとしたという気持ちが大きい。」

キリンビールの研究所で長年注目してきたHO遺伝子の制御を可能にした技術ではありますが、小林が頭に描く酵母研究のストーリーの中ではひとつの通過点だと言います。

「パン酵母やワイン酵母、清酒酵母など、比較的容易に交雑ができる酵母ではすでに研究が進んでいるので、まずビール酵母でそこに追いつくためにやるべきことがたくさんあります。私の頭の中のストーリーはそこからがスタートです。そうでないと、植物という異なる分野から酵母研究に入った甲斐がありませんから。」

「ビール酵母のブラックボックスを少しでも明らかにしたい」

発酵が進むと酵母同士が集まって沈むという性質を含めて、下面発酵酵母には、ラガータイプのビールを醸造するのに適した多くの優れた特徴があります。世界でもっとも愛されているラガータイプのビールをこれからも磨き続けていくために、キリンホールディングスとキリンビールは協働でビール酵母の遺伝子と醸造形質の関係の解明に取り組んでいきます。近年、ビールばかりではなく発泡酒、新ジャンル、また糖質ゼロやプリン体カットなど、多様な原料、多様なタイプのビール系飲料をご提案するようになりました。それぞれに品質向上に取り組み、新たな価値をお届けする中で、ビール酵母の役割はますます大きくなってきています。「この酵母を使うとこういうビールができるというのをひとつの現象として捉えると、酵母の振る舞いを決めているのは遺伝子だと思います。条件を変えることによって遺伝子発現は変わりますが、変化のポテンシャルも遺伝子に書かれているのです。長年のビール醸造で培われ、現在、生産現場で生かされている経験則は、完成度の高いものですが、これからも多様な酒類を造る技術の完成度をさらに高めていきたいと思っています。根気がいる地道な研究ですので、研究に没頭することも多いのですが、酵母の研究を続けていると酵母に愛情がわくというか、可愛くて仕方がなくなってくるんですよ(笑)。ビール酵母が持っている力をこれからも解明して、人々に愛されるビール造りに役立てていきたいと思っています。」

  • このページの情報は研究成果の掲載であり、商品の販売促進を目的とするものではありません。
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  • 組織名、役職等は掲載当時のものです(2009年12月)