ゲノムとは何か?
ヒトには全部で3万個強、ショウジョウバエには約1万3000個、パン酵母には約6000個の遺伝子が、それぞれあると推定されています。ヒトがヒトであり、ショウジョウバエがショウジョウバエであり、酵母が酵母であるのは、すべて遺伝子のプログラムによっています。その生物が持つ全遺伝子のセットを「ゲノム」と呼びます。言い換えればゲノムとは、生物がその生物であるためのプログラムの全体を指しています。
ビール酵母と、パン酵母との比較
ビール酵母は、そのゲノムに書かれたプログラムに従って、麦汁からビールをつくります。ピルスナータイプのビール醸造に用いられる下面発酵酵母(ここではビール酵母と表現します)は、Saccharomyces cerevisiaeのグループ(同じくパン酵母と表現)とSaccharomyces bayanusのグループ(一部のワイン酵母。ここではワイン酵母と表現)の両方のゲノムを併せ持った雑種である「Saccharomyces pastorianus」に属することがわかっています。
パン酵母のゲノムは、すでに全貌が明らかにされていることから、ビール酵母のどこがパン酵母のゲノムと類似し、どこが類似していないのかを詳細に比較しました。
コスミド・ライブラリーの構築
ゲノムを構成する染色体は、概念的には長い「ひも」状のものと理解できます。研究ではまず、下記の図のプロセスで、ビール酵母のコスミド・ライブラリーを構築しました。
コスミドは、染色体から切り出した比較的長い「ひも」を扱うのに適した「容器」です。個々の「ひも」が入った「容器」をクローンと呼びます。コスミド・クローンの中には、約40,000塩基のDNA断片が入っています。DNAの断片が「容器」に入ったものをライブラリーとして集めます。
コスミド・クローンの解析
このように作成したビール酵母のコスミド・クローンとパン酵母のDNA塩基配列との類似の度合い(相同性)を調べたところ、パン酵母と90%以上の相同性を持つクローンと、90%以下のクローンに分類できました。相同性90%以上のクローンがパン酵母(Saccharomyces cerevisiae)由来の遺伝子、相同性90%以下のクローンがワイン酵母(Saccharomyces bayanus)由来の遺伝子であると推察されます(下図)。
パン酵母には16本の染色体がありますが、解析の結果、ビール酵母には32本の染色体があることがわかりました。パン酵母と相同性90%以上の領域(Scゲノム)をピンクで、相同性90%以下の領域(Lgゲノム)を青で、それぞれ示しました(上図)。
この結果から、ビール酵母の染色体のほとんどの領域(約90%)は、パン酵母(Saccharomyces cerevisiae)由来およびワイン酵母(Saccharomyces bayanus)由来の染色体と構造が類似していることが示唆されました。また、残りの約10%の領域に、ビール酵母に特徴的な重要な遺伝子が含まれている可能性が推測されます。
発酵中に発現する遺伝子の解析
ビール酵母ゲノムには、遺伝子が約1万2000個存在していると予想されています。遺伝子はタンパク質をつくるコマンドですが、すべてのタンパク質が常につくられているわけではなく、どの種類のタンパク質が、どのような時にどれだけつくられるかは、ゲノムのプログラムで厳密に決められています。そこで、ビールの発酵中に発現している遺伝子を網羅的に解析しました。
発酵中のタンクから、所定の時間ごとにビール酵母を抜き取り、cDNAクローンのライブラリーを作成して、個々の塩基配列を決定しました。各クローンを解析することによって、発酵中にどのような種類の遺伝子が発現しているかを知ることができます。
発酵中の酵母からは、パン酵母(Sc型)由来と考えられるcDNAが3,337種類、一部のワイン酵母(Lg型)由来と考えられるcDNAが3,179種類、それぞれ取得されました。この中で、両方のゲノムから共通して取得されたcDNAは、1,996種類でした。また、興味深いところでは、類似が見出せなかったクローンが415種類、取得されました。
ビール酵母では、Sc型、Lg型を含めて、少なくとも全体の半分以上の遺伝子が発酵中に発現していることが示されました。また、Sc型にもLg型にも相同な遺伝子が見出せなかった遺伝子には、その機能とビール醸造の関係に、大きな興味が持たれます。
DNAマイクロアレイによるビール酵母の遺伝子発現解析
DNAマイクロアレイは、すべての遺伝子を断片化しスライドに並べて貼り付けたもので、遺伝子の発現状況を一度に確認できるツールです。ビール醸造における酵母の働きをより深く理解するために、パン酵母(Sc型)とワイン酵母(Lg型)の遺伝子を区別して解析できるよう、Sc型の遺伝子について6, 626個、Lg型の遺伝子について3,193個、ビール酵母に特異的な遺伝子について397個のDNA断片をスライドガラス上に貼り付けたビール酵母のDNAマイクロアレイを独自に作製しました。図のように、種類ごとにエリアを分けて貼り付けています。
このアレイ上で、緑色のシグナルが出ていればパン酵母(Sc型)由来、赤色のシグナルが出ていればワイン酵母(Lg型)由来、黄色のシグナルが出ていればS. cerevisiae、S. bayanus両方が持つ遺伝子ということになります。ビール酵母に特異的な遺伝子の断片については、特異的な遺伝子が発現していれば赤色、発現していなければシグナルは出ません(黒)。
培養0、5、20、28、50、70時間後のビール酵母をこのDNAマイクロアレイにかけ、Sc型、Lg型それぞれ374個の遺伝子について経時的な発現パターンを比較しました。374遺伝子の約60%がSc型、Lg型で類似した発現量の変動パターンを示しましたが、残りの遺伝子ではSc型、Lg型で異なるパターンを示しました。
今回の研究により、ビール酵母において、Sc型とLg型で発現パターンが異なる遺伝子が数多く存在することがわかりました。前述のとおり、ビール酵母(下面発酵酵母)は、パン酵母のグループ(Saccharomyces cerevisiae)とワイン酵母のグループ(Saccharomyces bayanus)の両方のゲノムを併せ持った雑種である「Saccharomyces pastorianus」に属することがわかっています。それぞれの酵母には性質の違いがありますが、ビール酵母ではそれがより複雑なパターンで発現している可能性が考えられます。
親子関係を用いた、ビール酵母の香気成分に関する遺伝解析
ビール酵母(下面発酵酵母)は、通常、出芽によって増殖しますが、特殊な環境下に移すと、頻度は低いながら、減数分裂して胞子を形成します。胞子から生まれた子ども(減数体)は、親の性質の一部を受け継いでいます。そこで、ビール酵母の減数体が親からどのような遺伝子を引き継いでいるか、またそれは親から受け継いだどのような性質に関連するかを調べることによって、ビール酵母の性質と遺伝子の関係の解析を試みました。
ビール酵母KBY011株を特殊な環境下において胞子を作らせ、96個の減数体を得ました。得られた減数体一つひとつを用いて、麦汁を発酵させ、香気成分の生成能と親からどのような遺伝子を受け継いでいるかを調べました。
96個の減数体の香気成分生成能を統計学的に解析したところ、ピークが一つだけの山型の分布を示すこと、親株より高い生成能の減数体も低い減数体も存在することから、ビール酵母の香気成分の生成能は複数の遺伝子により支配される量的形質であると考えられます。量的形質とは、ヒトの身長のように連続的に分布する形質を指します。量的形質は複数の染色体上の複数の遺伝子に支配されていることが多いと言われています。
SNPsによるビール酵母菌株識別技術の開発
アルコール飲料は、原料や製法とともに、使用する酵母菌株に大きく影響を受けることが知られており、酵母菌株を正確に識別する必要があります。しかし、パン酵母とビール酵母のように遺伝的にある程度離れた酵母の識別はできますが、ビール酵母同士の識別となると簡単ではありません。
そこで、個体間のわずかな遺伝子の違いであるSNPs(*)に注目し、下面発酵酵母など遺伝的に近い関係にあるビール酵母菌株を識別する技術の開発に取り組みました。
- (*)SNPsとは
single nucleotide polymorphismsの略で、一塩基多型とも言われます。個体間における1塩基の違いのことで、ヒトでは1000塩基対に1個所程度の頻度で存在すると推測されています。ヒトの場合、疾患のかかりやすさなどにも影響すると考えられており、医療分野での応用が大いに期待されています。
まず、染色体の大きさ(核型)は非常によく似ているにもかかわらず、異なる風味のビールを造る性質をもった下面発酵酵母6株を対象として、染色体上の広い範囲から選び出した遺伝子座の塩基配列を解読しました。その結果として30箇所の遺伝子座について菌株間SNPsが見出されました。
この30箇所のSNPsの菌株識別力を、上面発酵酵母をふくむバラエティーのある酵母菌株が識別できるかどうかで検証しました。
得られたSNPs情報を元に、UPGMA法によるクラスター解析を行いました。その結果、上面発酵酵母と下面発酵酵母は2つの大きなクラスターに分けられました。また、上面発酵酵母についてはすべての菌株を、下面発酵酵母についてもほとんどの菌株をSNPsで識別することができました。その中でも特に、供試した下面発酵酵母の菌株群は非常に近縁な遺伝関係にあることが示唆されました。このような樹状図で示される距離は、醸造形質の類似性と必ずしも相関するわけではありませんが、各種酵母株の間の遺伝距離を推定するための有効な手段になると考えられます。
ビール酵母の香気成分生成機構の解析
ビールは、酵母の働きによる発酵産物であり、デリケートかつ複雑な香味を持っています。香味に影響を与える物質は数多くありますが、生成量を抑えた方がよいもののひとつに硫化水素があります。そこで、ビール酵母(下面発酵酵母)はどのような状態にある時に硫化水素をたくさん生成するのか、またそれはどのような機構によるものかを調べました。
通常の組成の麦汁を低温で発酵させた場合(最も一般的な条件です)、やや高めの温度で発酵させた場合、麦汁にメチオニンを添加しやや高めの温度で発酵させた場合のそれぞれについて、発酵終了後に沈降した酵母を回収し、硫化水素の生成能を解析しました。
その結果、高めの温度で発酵させた酵母は低温発酵の場合よりも、多くの硫化水素を生成することが示されました。また、メチオニンを添加した麦汁を高めの温度で発酵させた酵母では、硫化水素の生成が大きく抑制されることが示されました。
次に、こうした生成能の違いがどのような遺伝子発現の違いによるものなのかをパン酵母のDNAマイクロアレイで解析しました。解析の結果、高めの温度で発酵させた酵母では、低温で発酵させた酵母よりも、麦汁中の硫酸イオンを取り込んでメチオニンを合成する経路の遺伝子群が多く発現していました。一方、メチオニンを添加した麦汁で発酵させた場合には、それらの遺伝子群の発現は抑制されていました。
アミノ酸の一種であるメチオニンは、身体を作るタンパク質の材料となるので、すべての生物にとって非常に重要な物質です。高めの温度では低温よりも酵母の増殖が盛んです。そのため、メチオニンが不足して、メチオニンの合成に関わる遺伝子群が活発に発現する結果、中間産物である硫化水素も多量に合成されることが考えられます。麦汁にメチオニンを添加した場合には、メチオニンが不足しなかったため、比較的高温で増殖が盛んでも硫化水素の生成が抑制されたと考えられます。
メタボローム解析を活用したビール酵母の育種
ビールに含まれる硫黄系化合物は香味に大きな影響を与えることが知られています。例えば亜硫酸は高い抗酸化作用を持ち、鮮度の維持に重要な役割を果たしている一方、硫化水素は不快な臭いを有するだけでなく、他のオフフレーバーの前駆物質ともなります。しかし、これら2つの物質は硫酸イオンからメチオニンが合成される経路(下の図を参照)の中間物質で、どちらか一方を増減させると、他方も連動して増減するという関係があります。
キリンホールディングスでは、代謝物質を網羅的に測定するメタボローム解析(*)という手法を用いて、酵母細胞内の新しい代謝の律速段階を探索することにより、亜硫酸生成量を増加させると共に硫化水素生成量を減少させるための新たな試みを実施しました。
- (*) メタボローム解析とは
ゲノムが細胞内の全遺伝子を、プロテオームが細胞内の全タンパク質を指すように、メタボローム(metabolome)は、細胞内の酵素タンパク質によってつくられる全代謝物質を指します。これらの代謝物質、特に低分子化合物を網羅的に効率よく解析するために、質量分析(MS)やNMRなどの分析機器を用います。
ビール酵母とパン酵母のメタボローム解析とマイクロアレイ解析
ビール酵母は亜硫酸と硫化水素を生成しますが、パン酵母はどちらもほとんど生成しないことが知られています。そこでまず初めに、これらの酵母を遺伝子発現およびメタボローム解析により比較しました。その結果、ビール酵母では発酵初期にHOM3遺伝子の発現量が低く、細胞内のO-アセチルホモセリン(OAH)量が極めて少ないことがわかりました。HOM3遺伝子の発現が抑えられる結果、代謝経路上の硫化水素からホモセリンへの流れが抑制されて亜硫酸・硫化水素が蓄積する可能性が考えられます。
亜硫酸高生成酵母の育種
そこで、HOM3遺伝子とMET14遺伝子を過剰発現させたビール酵母を作成して、硫酸イオンから亜硫酸への代謝とアスパラギン酸からOAHへの代謝を同時に増大させることで亜硫酸高生産、硫化水素低生産となるかどうかを調べました。作成したビール酵母では、亜硫酸生成量が高く、硫化水素生成量が低くなっていました(下の図を参照)。こうした知見をもとに、スレオニンによるOAH生産のフィードバック阻害が起こりにくい酵母を選抜することで、硫化水素生成量を増やさずに亜硫酸生成量が増えたビール酵母株を遺伝子組み換えを用いることなく育種することが可能となりました。
- 組織名は掲載当時のものです(2009年12月)
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- 飲酒にあたっては、適量飲酒を心がけてください。