ストーリー

脳機能素材「シチコリン」を海外主力商材に押し上げた女性研究者の挑戦

  • 機能性物質生産

~脳の健康に着目し、世界が認めるエビデンスを取得。さらなる事業拡大を目指す~

キリングループは、食品や飲料だけでなく、医薬品原料や健康機能性素材も事業展開しています。その一つがシチコリンです。もともと医薬品として用いられていた成分ですが、近年欧米では認知機能に効果のある食品成分として販売され、脳の健康維持への貢献が期待されています。その高い機能性に着目し、食品としての展開拡大を目指して研究に取り組んでいるのが、中﨑瑛里研究員です。確かな科学的エビデンスの獲得と、海外営業部隊との密な連携で大きな成果を生み出しました。社内外で注目を集めるその手腕は、いかにして磨かれたのでしょうか。

中﨑 瑛里(なかざき・えり)

キリンホールディングス(株)R&D本部 キリン中央研究所 研究員

2012年、協和発酵バイオ(株)入社。発酵技術で生産する健康機能性素材の評価やエビデンス取得に携わる。入社以来、10年間にわたりシチコリンを担当。2015年、博士号(環境学)取得。2020年7月、キリンホールディングス株式会社R&D本部キリン中央研究所に異動。2022年4月より経営企画部兼務。新素材の探求やHMO(ヒトミルクオリゴ糖)などの研究企画にも力を注いでいる。

シチコリンとは?

「シチコリンと5文字で言っても、何のことだかわかりにくいですよね」と明るい笑顔を見せる中﨑研究員。率直で、好奇心と探究心、強い信念を秘めた眼差しが印象的です。

まずは基礎知識として、シチコリンは私たちの体内に存在する成分で、代謝によって生成されること。脳や神経細胞にある細胞膜を維持する働きがあること。化学合成では生産が難しく、キリングループの協和発酵バイオの発酵技術で大量生産が可能になったことなどをわかりやすく話してくれました。

シチコリンは従来、脳虚血治療の医薬品として用いられていた成分です。欧米で健康機能性の食品成分として認可され、協和発酵バイオが食品素材として積極的に販売を展開し始めたのは2000年代のこと。販売とともに食品としての機能研究が進められ、2012年、中﨑研究員が主担当者となりました。この頃はまだ、健康食品業界ではマイナーな素材でした。
「当初、シチコリンの担当者は新入社員の私1人。今でこそ米国の有名健康食品ブランドのサプリメントやエナジードリンクに採用されていますが、当時は会社としても注力素材ではありませんでした。だからこそ、この素材を私の手で大きくしたいという思いがありましたね」

自分の目、自分の手で確かめたい

もともとは医薬品であるシチコリン。効果・効能を持つ素材であることは明白ですが、食品として、少量の摂取でも効果があるのかはきちんと臨床試験で調べる必要があります。中﨑研究員は、米国の大学と連携して臨床試験を企画し、健康な方の注意力への効果検証を開始しました。
「シチコリンは海外で展開する素材なので、臨床試験も海外で行いました。しかし海外と日本では研究方法も法律も異なります。臨床試験の規制も多く、ガイドラインを一つひとつ調べて理解するのには膨大な時間がかかりました。それでも、米国の大学の先生に一任してしまうのではなく、自分できちんと理解した上で責任を持って判断したかったんです」
自分自身で調べ、人の意見を鵜呑みにせずに考える。当初はなかなか結果が出ませんでしたが、少しずつ知識も身に付き、先生とも対等に議論が交わせるようになっていきました。

海外とやり取りしながら自らも手を動かし、実験を行う

自分の目で、自分の手で、きちんと確かめたい。その思いは、営業現場に対しても向けられました。自分が取得したエビデンスが営業現場や顧客の元でどのように活用されているのか、知りたいと思ったのです。
「海外の営業担当者に直接連絡を取りました。入社3年目の若手が現地の方と話すのは異例ですが、これが大きな転機になりました。お客様から求められているのは、なんとなくの効果効能ではなくて、科学に裏付けされたエビデンスなんだと実感でき、それ以来、私のミッションは単に研究するだけでなく、その結果を学術的に正確に、かつ、わかりやすく伝えることだと考えるようになったのです」

マイナー素材が一気にメジャーへ

海外の営業担当者とオンラインで打ち合わせ。米国のみならず、アジアなど各国とやり取りしている

そんななか、3年にわたり進めてきた米国の大学との臨床試験が実を結び、10代の健康な若年男性において、シチコリンを摂取することで注意力が向上するというエビデンスを得ました(図1。論文発表は2019年)。医薬品としてではなく、健康な若者にも、低用量でも効果があることを世界ではじめて明らかにしたのです。
BtoBのビジネスでは、顧客企業のR&D部門とも専門的な話をしなければなりません。中﨑研究員は、現地からのオファーを受け、大手健康食品ブランドのR&D担当者にデータを紹介しました。
「通常は本社から上級研究員が赴く案件ですが、それまで直接現地とやりとりしてきたことで信頼関係を築けていたためか、指名していただきました。自らの研究を、熱を持って説明できるのは、とてもありがたい機会でした」

図1 若年男性におけるシチコリンの注意力に対する効果

13歳から18歳の健康な男性75名を対象に、シチコリンを1日あたり250-500 mg、4週間摂取してもらい、選択的注意力を測るテストを実施。プラセボ群に対し、シチコリン摂取群では有意に選択的注意力を表す指標であるスピードスコアが向上することを確認しました。

そして翌年、うれしいニュースが飛び込みました。米国の大手健康食品ブランドが、主力のサプリメントにシチコリンを採用したとの知らせでした。
「マイナーだった素材が一気にメジャーになり、社内全体が驚いた出来事です。米国は日本よりもはるかに健康機能性食品が普及していて、競争も激しいので、確かな科学的エビデンスを示せた結果だと思います。現地の方からも『中﨑さんのおかげだよ』とメールが届き、すごくうれしかった」

認知症予防に挑む。記憶力のエビデンスを獲得

2015年以降、米国の大学との共同研究は終了。さらなるシチコリンの展開拡大に向けて、2017年から構想を練り始めたのが、記憶力に関する研究でした。
「それまでは注意力にフォーカスした研究を行っていましたが、世界的な高齢化問題を踏まえると、記憶力にもニーズがあるのではないかと考えました。シチコリンは神経細胞の代謝を活性化する働きを持つので、物忘れが気になったり、加齢による認知機能の衰えを感じているときにも効果を発揮するはずだと仮説を立て、研究対象を設定しました」

そして2021年、この研究成果を論文として発表。シチコリンが記憶力向上に寄与することを科学的エビデンスとして示しました(図2)。この論文は、栄養学の海外論文誌に認められ、掲載されました。大きな反響を得て、海外のさまざまな大手メーカーが、このエビデンスに基づいた健康食品やサプリメントの商品化の検討を進めています。

「認知症の予防や、認知症の発症を遅らせる取り組みは全世界の喫緊の課題です。今回の研究成果が、脳の健康をサポートする機能性食品の開発に貢献できたら本当にうれしいです」

図2 健康な高齢者におけるシチコリンの効果

加齢による記憶力の低下を感じる50歳から85歳の健康な男女を対象に、シチコリンの記憶力へ与える影響を評価。シチコリンを1日あたり500mg、12週間摂取することで記憶力全般が向上することを確認しました。特に、高齢期に低下しやすいエピソード記憶に関する値が向上。シチコリンが記憶力をサポートする健康機能食品素材として活用し得ることを示す科学的エビデンスといえます。

これらの研究はすべて、協和発酵バイオの製造したシチコリンを使用して行われています。シチコリンのエビデンスをここまで取得している企業は他になく、米国では「Cognizin(コグニチン)」のブランド名で信頼され差別化が進んでいます。2018年には世界で約5割のシェアを獲得するほどに成長し、今後も事業がさらに拡大していくことが期待されています。

「私が大切にしているのは、独りよがりにならないこと。すばらしい研究成果を出しても、世に伝えていかなければ意味がない。素材を広く役立ててもらうためにも、難解な説明ではなく、親しみを持ってもらえるように研究成果を伝えることを心がけています」

そして次の素材、HMOへ

「シチコリンの研究を通じ、研究者として成長できた」と語る中﨑研究員。海外の考え方やニーズをすくい取り、効果的な研究を組み立てることのできる力量は唯一無二といえるでしょう。2022年4月からはHMO(ヒトミルクオリゴ糖)プロジェクトにも参加し、海外展開を支えています。
「HMOは母乳の成分。シチコリンのように、自分たちの体の中に秘められている価値あるものとして、世に出してあげたい。海外の営業の方の声も同じかもしれません。知られていなかった機能、見えていなかった価値に気づき、多くの人に活用してもらえたら」

オープンイノベーション拠点である湘南ヘルスイノベーションパークに研究の場を移したことも刺激的だと目を輝かせます。「研究は“思い”がなければ動きません。うまくいくことばかりではありませんから。さまざまな企業が集まるこの場所で、深いところで共感できる人と出会ってコラボレーションできたらいいですね」

  • 組織名、役職等は掲載当時のものです(2022年6月)